フリータイムの散策


パックツアーのなかで食前、食後などのフリ−タイムには、時間を惜しむように、できるだけ近辺を歩きまわるようにしました。
そのとき見た現地の光景で、忘れがたいものを集めてみました。

・ロカマド−ルの田園風景(フランス) 1999.10.13

・リガ市街の豊かさ(ソ連:ラトビア) 1990.5.2

・モン・サンミッシェルの夜道(フランス) 1999.10.19

・深いモスクワの地下鉄(ソ連) 1990.5.2

・西安の闇夜(中国) 1993.4.26

・緊張するニューヨークの地下鉄(米国) 1989.5.9

・北京駅の人の群れ〜地下鉄(中国) 1993.4.29

 

 

   ロカマド−ルの田園風景(フランス) 1999.10.13

  

 18:10 一人で散策に出た。まわりは家がまばらだ。どこを進んでも知らない道なので、発見の楽しみがある。わき道を選んだ。クルミが落ちていたので見上げると実が枝にまだ少し残っている。クルミは、この地方の特産物だ。小さなリンゴも道に落ちている。農家の牧場に羊が2匹いる。黒山羊さんも草を食べている。別の広い囲いのなかに数えきれないほどの鴨が群れている。この地域はフォワグラの名産地でもあり、そのための飼育場だ。じっと生態を観察していると親しみがわいてきた。逃れがたいしがらみのなかで明日をも知らず飽食している自分と鴨たちとが重なってくるからか……。

 さらに進むと視界が広がった。一本道の左右に耕地が広がる。道の並木が色づいている道端に黒紫色のグズベリ−のような実がなっている。淡い青紫色のマツムシソウがまだ何本も咲いている。マツムシソウは、かつて初秋の志賀高原で見つけてから好きになり、スイスやイタリアの田舎でも発見した思い出の花だ。遠くに、牧場で羊の群れが1匹の犬に左右から追われながら家に戻るところが見える。あたりに物音はほとんどなく、雰囲気は欧州のサイレント映画のなかに溶け込んだような思いだ。パックツア−で来ていることが信じられないくらいだ。

 帰り道、鴨の飼育場のところへ戻ってきたとき、少し離れた農家の庭から2匹の犬が突進してきた。飼い主が犬の名前を呼んで制止しようとしたが、1匹は私のズボンに足をかけた。少々怪しげな身なりで、多少は疑わしいふるまいがあったにしても、私は公道を歩いており、犬には飼い主も付いており、これまでの経験から欧州の犬の理性を信じていたので少しもあわてなかった。犬の目を見つめつつ飼い主の制止を待ったが、あとで思い出すと怖かった。犬は東洋人が珍しくて、ただ触れてみたかっただけかもしれないが……。

 

  モン・サンミッシェルの夜道(フランス) 1999.10.19

 

 夕食後 21:40 防寒の備えに着替え、懐中電灯を持って一人で外へ出る。島の夜景をビデオ撮影するためだ。さほど寒くはなかった。まわりは上弦のぼんやりとした月が出ている程度の薄暗闇だ。ややカーブした車道の両脇が、小高くなった歩道になっており、そこをまっすぐ歩く。海岸から戻ってくるカップル2、3組とすれちがった。もっと近づいて撮ろうとどんどん歩いて行ったら、島に接近していた。以前は干潮時のみ陸続きになったが、最近は島へ続く道路(2 km) が造られて潮の流れが変わり、土砂が堆積したり、生態系に影響を与えているという環境問題は知っていた。だが、この道がそれだとは思いもよらなかった。私の頭の暗闇のなかでは島の対岸の道路を歩いているものと錯覚していたのだ。

 潮は引いていて、水の見える部分は少なかった。島にもレストランやホテルがあり、この時間帯でも路上にヘッドライトの線が何本も描かれている。やがて島に上陸した。てっぺんには聖ミッシェルの像が輝いている。ライトアップされた壁面などを撮る。歩いているうちに光のなかへ入り、自分の動く黒い影が大きく壁面に映り、われながら不気味な感じがした。島の門をくぐるとレストランがまだ開いていた。有名人らしき写真がたくさん掲げられていたが、そのなかに高松宮様両殿下の写真を見つけた。私は国粋主義者ではないが、外国で宮様の写真を見るといつもほっとする。島へは明日また来るので、あとは対岸までの1本道をひたすら歩いた。速足で片道35分ほどして 23:05 ホテルへ戻った。妻は「暗闇で襲われたり、海辺で潮の流れに飲み込まれたかと思った」と強い口調で非難した。私からすれば大げさにとは思うが、反論を控えた。またまた心配させたことは事実なのだから……。0:30 エキサイティングな探検を一人で思い浮かべながら眠った。

 

  西安の闇夜(中国) 1993.4.26

 22:10 ホテル着。昼間、目で距離を測っておいた近くの夜店を一人で探索する。妻はあの暗さにビビったのだ。念のため、懐中電灯をポケットに忍ばせた。外はほこりっぽくかすみ、しかもまっくらだ。すれちがう人も、間近になるまで性別さえわからない。若いカップルが多い。自転車も走るがライトがない。はじめはいくらか不安で、かなりの早足で歩いたが、だんだん目もなれて、平常心に戻った。10分あまりで夜店のならぶ道に出た。暗くても車は多いので、交差点は必死で渡る。裸電球の下でビリアードをしている。飲食店の屋台がいくつも出ている。羊肉の串焼き、ワンタン風のもの、水ぎょうざ、ホットドッグ風に炒め物をはさんだもの、豚肉の燻製をクレープ風のもので包んだ食べ物などがある。お客はサラリーマン風や家族連れ、若いカップルなどと様々だ。中国では街に酔っ払いはいないと、どの本にも書いてあるが、やはりなく、危険な感じがしない。

 交差点のなかでトロリーバスが停車して動かない。パンタグラフが架線から外れたのだ。20人ほどの乗客が降りてみんなで押しはじめた。その間にも車や干し草を引く馬車や自転車が交差点に入り組み、混沌とする。クラクションも鳴りわたる。やがて、乗客らしい二人が後部でパンタグラフを架線にかけ、くらやみにスパークが光り、何事もなかったかのように走り過ぎていった。日常茶飯事なのだろうが、なんとも中国らしい心温まる光景をみた。時刻も遅くなり、帰り道では、女性をうしろに乗せた自転車の二人乗りがつぎつぎと走っていく。歩道の隅で動かないカップルも少なくない。生身の中国人にふれたようで、うれしくなった。ホテルへ戻ると23時だった。部屋のドアーを約束の回数だけノックしたら開いた。

 

  北京駅の人の群れ〜地下鉄(中国) 1993.4.29

  

 21:20 夕食後、二人で外出する。21:40 タクシーで最寄りの地下鉄駅「西直門」へ。薄暗いので入口がわかりにくいが、運転手さんが指さしたほうへ行くと、「地鉄」の文字が見えた。「售票処」で5角(10円)を出して切符を買う。均一料金だ。人手が十分あるためか、改札は自動ではない。北京駅へは、環状線のどちら回りでもほぼ等距離であり、右回りに乗る。時間が遅いので空いていて座れる。車内はシンプルだが、モスクワのとちがってお茶などの広告が少しある。ホームの壁に絵がある駅がいくつかある。車内で若者が新聞を売りさばいていた。20分ほど乗って、九つ目の駅が北京駅だった。

 地上に上がると「北京站」(北京駅)のネオンが見えた。暗い駅前をおおぜいの人が行き交う。誘いかけられないように、きびきびと歩いて構内へはいる。4階建てで、天井が高い。広い構内が人、人、人、それも、ところかまわず寝ころんだりしている。トランプをする人もいるが、ほとんどの人はじっとしている。夜中でも列車が発着するため人が多いのか。時間待ちの人ばかりだろうか。電光掲示板に列車の案内がでる。上り専用の1台のエスカレーターで2階へ上がってみた。寝ころんだ人を避けながら、撮影のため手すりまで近づいた。そのとき、おばさんの敷いた新聞紙をうっかり踏んづけたら、キッとにらまれた。1階を見おろすと、暗がりに、黒ずんだ服装の人たちが、さまざまなポーズで、無秩序に横たわっていて、異様に見える。最近、急激な経済の発展につれて移動する人が増え、列車がスシ詰めで、切符も手にはいりにくいそうだから、苦労も多いのだろう。その場を立ち去るとき、足元の新聞紙をきちんと整えたら、さっきのおばさんが、にっこりほほえんでくれた。笑顔はどこの国の人のも良い。

 2階の奥へ進むと、各ホームへ降りる階段が見えたが、降りられない。改札口はホームごとにある。「站台票」(入場券)を買おうとしたが、窓口を回されたうえ通じず、あきらめた。軽食の売り場が両側にある。中国は「対」の美意識があるので、対称的な配置が少なくない。トイレもはいってみる。このごろ一般のトイレに異常に興味が出てきた。覚悟したほど汚くはない。最近でこそJRのトイレもきれいになったが、昔の国鉄はひどかった。1階へ下る階段の両側にも、いっぱい人が休んでいる。見慣れると、危険な感じはしない。

 23:15 再び地鉄で帰る。售票処のおばさんは、私たち二人を見て、こちらが言う前に「リャン(両)?」と尋ねた。私が「ウン」とうなづくと、ニコッとして切符をさしだした。丸顔で、温かみのある笑顔だ。「きっと昔も美人にちがいない」と妻もいった。行きと同じ右回りの列車を待ったが、なかなか来ないので、左回りで同じ道を戻ることにした。安定門駅を過ぎたころ、車内の電灯が暗くなった。座席に寝ころんでいた男性が目を覚まし、つぎの鼓楼大街駅で降りていった。私たちはあと二つだと思ってそのまま座っていたら、突然、至近距離でバチンバチンと激しい音がした。見ると駅員のおばさんが、ハエ叩きのようなラケットのようなものを持って、私たちを追い立てている。暗くなったのも、故障ではなく警告だったのか。ここで終点なのだ。しかも、どうやら終車のようだった。危うかった。

 地上にはタクシーのほかに自動三輪車、人力三輪車も待っている。タクシーの後部にはどれも五輪誘致のステッカーがはってある。選択肢は広いが、もちろんタクシーを選び、行先のホテル名と「多少銭?」(いくら?)とメモに書いて見せたら、「メーター」を指さしたので安心して乗り込んだ。ホテルへは 23:55 到着。午前様は免れた。降りるとき料金をメモに書くよう求めたら、りっぱな領収書をくれた。起点、終点、乗車距離、乗車時刻、下車時刻、待ち時間、運転手名なども記載されており、料金は数字と漢字で表されている。項目は英語も併記されている。国営企業で、監督電話の番号まである。五輪誘致のための努力が見られる。この領収書によれば距離は7.8 km、15分で、19.30元(390円)。やはり北京のタクシー料金は他の都市より、やや高い。ミニタクシーの活躍する余地がある。とにかく無事に夜の探検をすませることができ、ビールで乾杯して1時に寝る。北京駅の人の群れが、まだ目に浮かんだ。

 

  リガ市街の豊かさ(ソ連:ラトビア) 1990.5.2

 さらに進むと旧市街に入った。リガ市は、中世には北ドイツのハンブルグ・ブレーメンなどとともにハンザ同盟を結成して繁栄した商業都市であり、北ドイツに似た、素朴でがっちりとした街並みだ。川の手前の広場は赤軍広場といって革命兵士の像がある。ダウガバ川にかかる橋の両側には、赤い旗がたくさん並んでいる。右に折れて川べりの道を歩く。金属製の柵のようなものの絵柄にも、ソ連国旗にある鎌とハンマーがあしらわれている。すれちがうおばあさんの、しっかりとした顔つきと着こなしが素晴らしい。美しく老いる見本のような人だ。ドムスキー聖堂など古い教会も見上げてまわる。帰りに公園を歩いた。樹木が大きくて多い。みんなゆったり、くつろいでいる。見ていても豊かな気分になる。本当に日本の方が豊かなのだろうか、とふと思う。うす暗くなった。

 

  深いモスクワの地下鉄(ソ連) 1990.5.2

    

 二人で地下鉄ベーデンハー駅へ向かう。ロシア語でも地下鉄はメトロといい、「M」の文字でわかる。駅周辺にはタバコや飲み物などの売店がある。新聞売り、花売り、宝くじ売りもいる。駅の建物に入った。自動両替機で15カペイカ硬貨を5カペイカ硬貨に替える。添乗員さんに昨夜借りた命綱の硬貨であり、故障で出てこなかったら終わりだ。慎重に、他の人がやるところを観察し、機械に異常のないことを確認してから硬貨を入れる。見事に3枚出てきてホッとした。それを自動改札機に入れて中へ入る。均一料金だから、これでどこまででも乗れる。安い。

 地下へのエスカレーターに乗る。傾斜が急でスピードがかなり速い。それでも左側を走り降りる人もある。長い。ホームは全然見えてこない。1分半ちかくかかってホームに着いた。シャンデリアがあり、「地下宮殿」といわれるだけのことはある。駅によっては大理石で造られ、きらびやかな装飾もあるそうだ。構内は広いが、売店などは一切ない。ホームの進行方向の先端に秒単位まで表示するデジタル時計があり、現在時刻と直前の列車が出てからの時間が表示されている。今は3分近くなるとゴーと音がして列車が入ってくる。

 まず一駅乗ってみる。朝早いので空いている。頑丈そうな車両だ。車内広告はない。そのため、路線図がよく目立つ。路線図が広告に埋もれている国とは違う。シチェルバコフスカヤ駅で降りた。ここもほぼ同様の駅だ。地下鉄環状線への乗り換え駅である。もう二つ先のプロスペクトミーラ駅まで行ってみる。制服を着た軍人さん、材質は必ずしも良くないがこぎれいに着こなした娘さん、若い事務職風の人、一見して労働者とわかる人、ドラム缶のようなおばさんなど、いろんな人の素顔を見ることができ、興味が尽きない。時間の関係もあり、ここで引き返した。

 

  緊張するニューヨークの地下鉄(米国) 1989.5.9

  

 最後の朝、5:45 張りきって早起きする。晴。6:45 二人で食前の散策、といっても目的は地下鉄に乗るためで、タイムズ・スクエアの 49th STREET 駅へ向かう。この時間だから人通りが少ない。窓口でト―クンという硬貨のようなものを買った。これを改札口の穴に入れると一人だけ通れる。乗るのが目的だから1区間だけにして、次の 42th STREET で折り返すことにする。まちがいなく目的の路線か、Express(急行)でなくLocal(各駅停車)かを注意深く確認して乗った。車両はきれいになっていた。以前は落書きでいっぱいだったが、最近ではスプレ―で書いてもつかない川崎重工業の車両に取り替えているとのことだ。都心と逆方向だから乗客が少ない。さすがに車内でのビデオ撮影は遠慮した。次の駅で下車し、逆方向の列車を待ったが、なかなかこない。この駅は鉄骨がむきだしで汚い。構内いっぱいに口笛のメロディが響きわたる。乗客が少ないだけに不気味だ。黒人が少なくない。それでも勇気をだしてホ−ムをビデオで撮影した。妻が乗り込むとき、みんなジロッと見た。地下鉄名古屋駅で外国人を見るときと同じにすぎないと思おうとした。座席は満員だった。他人と距離をおいて立った。無事にもとの駅へもどった。小さな旅だったが、うわさの地下鉄だけに緊張した。一仕事を終えた気分だ。

 

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