舌癌疑惑
気づいたのは今年の10月に入ってからである。舌に痛みがあったり沁みるようなことはなかったが、何か違和感があった。これまでにも、誤って舌を噛んだり、魚の骨で舌を傷つけたり、やせるためにと唐辛子、胡椒、山椒などの香辛料をとりすぎたり、血液をサラサラにするためにと生タマネギや生ニンニクを食べ過ぎたりして舌の異常を感じたことはあったが、それとは違う。鏡で見てみると、舌の上側中央付近で直径1cmほどの円状に小さく盛り上がった部分がある。色は特に赤くはない。押してみると、その部分を含む土台にしこりがある。もしや……、まさか……、でも……。
60余年、毎日お世話になりながら舌をじっくり眺めたり、舌の役割を真剣に考えることはなかったが、舌は話す、食べるという日常生活に深くかかわっているのだ。もし、癌と判定されて切除されれば舌切り雀になる。これまでのようには話せず、アー、ウーしか言えないのではないか。甘辛などの味覚がなくなり三食の美味しさが味わえなくなる。大好きなワインも味がわからず、ただの液体になってしまう。それよりも食べ物はうまく飲み込めるのだろうか。疑問や心配事が、ふつふつとわいてくる。
そう思い悩みながらも、病院へはなかなか足が向かない。これは一時的なもので、そのうち元に戻るかもしれない。パソコンの買い替えやデータの移行、初孫の誕生などで気ぜわしいし、診察結果によっては、下旬に予定されている何十年ぶりかの小学校クラス会にも出席できなくなる。その前にも楽しい飲み会がいくつもあるし、などと思って日を延ばしてきたが、舌の状態はいっこうに変わらなかった。
月末になって、やっと気持ちの整理ができた。癌であれば早期発見が大切である。仮に手遅れであっても、一人で悶々とするストレスの多い日々を送るよりも、現実を踏まえて残された選択肢を着実につぶしていく生き方のほうが前向きでいい。それに癌でない可能性だって、まだあるのだ。
10月31日、津島市民病院の耳鼻咽喉科へ出向いた。最近の病院のサービス向上ぶりはめざましく、診察予想時間帯も表示されていたが、不安な心理状態で2時間も待つのはつらい。診察は一瞬で、「しこりの部分は大きいね。見たところ癌ではないみたいだけど、切り取って検査したほうがいい。オペの日を予約しておいて」と女医さんは明るく言った。「癌ではないみたい」の一言で少し気が楽になったが、癌の可能性が消えたわけではない。この一言だって、悩める患者に対する気休めサービスの言葉かもしれない。不安定な心理状態は人を懐疑的にする。この人が二枚舌でないとも言い切れない。検査のオペを2日後に決めた。
11月2日、早めの昼食後2時間の絶飲食。オペに先立ち女医さんから「患部の一部を切り取り、肉片をいただきます」と言われた。命をいただかれるよりはましである。舌にブスリと麻酔の注射針が3本ほど続けて刺し込まれた。泣きはしないが、けっこう痛い。麻酔の効きを確かめてから患部をメスで切り開き、約束の小さな肉片が奪われた。オペの進み具合が折々詳しく説明されるので不安はないが、口が開けっ放しなので犬のように息をするしかない。所要時間は全部で10分ほど。出血は歯の治療ほどにすぎず、2針の縫合で済んだ。麻酔はまだ残っているが話もできる。検査結果は1週間後に出るとのことで、少しでも早くと朝1番を予約した。
オペ後3時間ほどすれば食事ができると言われたが、舌は切り口を中心に大きく赤く腫れ上がり、自分のものとは思えない。だが、あるだけでもいい。恐る恐る食べ物を口に入れたらチクチクはするが、味もわかるし食べられる。この状態は1日ごとに回復していき、3日目にはワインを口にし、5日目ぐらいから不快感がかなり消えた。
11月9日、判決の日。いつになく朝5時ごろ目覚めて、もう眠れない。不安と期待のシミュレーションの映像が交互に目に浮かんだ。女医さんの言葉からも癌の確率は多くないと信じているが、確率では不安は一掃されない。99%大丈夫と宣告されたとしても、自分にとっては有るか無いかしかないし、残り1%が自分に当たれば万事休すである。きっと刑事被告人の心境と同じだと思う。椅子にかけて判決を待つ時間がやけに長く感じる。女医さんは検査結果が記された紙を眺めながら、しばらく何も言わない。向き直って「いいよ!」と無罪判決を言い渡した。判決理由は「癌細胞は発見されなかった。盛り上がった部分は線維質で、一種のこぶのようなもの。原因不明だが放置しておいてかまわない」だった。この瞬間、垂れ込めていた暗雲が一挙に散った。人の気分はそんなにも急に変わりうるのかと思うほど豹変した。この1ヵ月ほどの不安や迷いは、いったい何だったのだろうか。診療代も、この日はニッコリと支払えた。
最近NHKのキャンペーンなどで「癌の早期発見」が声高に叫ばれているが、検診を嫌がり、兆候がある人でも多忙だからといって先送りしたり、検診に行かず手遅れになった人が、身の回りでも少なくない。はからずも今回、その方々と同じ心境を体験した。私の場合もかなりためらったが、幸いリタイアの身で多忙ではなかったから検診を決断できたこともある。三度の癌を早期発見で克服された友人佐々頌さんの著作「仕事より命」に後押しされたこともある。
運よく今回の舌癌疑惑は無罪であったが、この年頃になると、また遠からず癌疑惑で決断を迫られることになるだろう。この経験を生かして、自分のためにも家族のためにも、次はさらに沈着冷静に臨みたいと、新年を前にして、今も残る舌と心の傷跡をなめながら決意を新たにしている。
2005.12.28