04: 完全黙秘


 鮮やかに光を弾く、色。ひらり、白いシャツが傍らを舞った。
「……暑くないんですか?」
 誰もがうだるくらいの熱気の六月。野外ともなれば、直射日光でステージは相当な温度になるはずだ。そのためだろう、出演メンバーはどこも軽装にもほどがある衣装に身を包んでいた。
 むろんそれは和真らも同じはずなのだが ―― ただひとり、しっかり長袖を着込んだ者がその場にはいた。言うまでもなく、翔である。
「ステージ、かなりヤバそうですよ?」
 野外慣れとまではいかずとも舞台慣れだけはしている政人が、言外に服装への注意を呼びかける。当人は見慣れた黒のタンクトップに、細身のブラックデニムだ。
「もしかして、暑くないとか……」
「暑いに決まってるだろうが」
 達彦の呟きは一刀両断にされた。人間外扱いはさすがに不快だったようだ。
「だったら脱げば?」
「陽射しで、もっと暑い」
「手袋は?」
「外したら、すっとばすぞ」
 呆れたように差し挟まれた和真の声にも、拗ねたのか尖った声音は戻らない。そうしてスティックを振るそぶりをする手には、見慣れた黒い革手袋。その中では確かにまだ乾ききらぬ傷が疼いている。再び血がにじめば、相当に滑るはずだろう。
「そういえば、メガネは?」
「いるかよ、そんなもん」
「ま、ね……。合図さえ聞こえればいっか」
 言われてみれば、視力の必要はないかもしれなかった。譜も頭に入っていればタムやシンバルは身体の感覚で叩くのだから、観客に怖じ気づかないためにもそれは理に適っている。
「だいたい曇るわ、レンズがっ」
 連続する否定。だが普段の流れるような非難の弁舌はつながってこない。
 どうにも消えない違和感に気づいたのは、その場の全員だったろう。そしてついに政人が動いた。
「もしかして、緊張してません?」
「おまえら、しないのかよっ」
 間髪を入れず返された言葉に、他の全員が呆気に取られた光景はそれなりの見物だったろう。しかしそこにも嗤いの突っ込みは入らないところからして、よほど緊張しているのは確からしい。
 予想しなかったその姿は、だがしばらくして周囲に対してゆとりをもたらした。
「大丈夫ですよ、あんなに練習したんだから」
「……かねぇ」
 積み重ねだけが力となる。わかっていても尽きない不安を抱えた初舞台の男は、そのまま独りうめきつづけるのだった。
 だがどんな状況でも時間は進む。すべての演目がタイムスケジュールどおりに行われれば、彼らの割り当てられた刻限もまたついに来る。そしてステージに立てば、あとは文字通り血をにじませた練習と、その中で培われた感性。そしてノリだけが頼りとなる。
「うぜぇよっ!」
 まず投げ捨てられたのは手袋だった。普段よりも激しくヒットしていたのか、確かに血まみれのそれはすでに滑りどめの役を果たさないだろう。そのまま曲間の隙を突いて、羽織られていたシャツも放り出される。触れた場所には、鮮やかな赤。
「うわぁ……っ」
 白と赤のコントラストは音の強さと相まって、歌をいっそう印象づけた。
 くるりと振り返りステップを踏んだ和真の目にも、ようやく歓声の理由がわかる。響く弦と声だけを感じて、ただひたすら曲に乗せられている翔。タンクトップだけとなった上半身は、躍動する音とともに跳ね回っている。乱れ髪に覗く、汗をはじいた顔だちもまた観客の目を魅了するのだろう。そのなかにある情熱的なまなざしに、和真もまた吸い寄せられた。
(あんたの情熱は、いくらでも増えつづけるんだね)
 ひとつところにとどまらない。かつては不安を覚えたはずのことが、いまはこんなに頼もしい。
 ずっと眺めていたいと願うが、客席とは逆側にあれば叶うはずもない。背中から突き刺さる、嵐のような波動を受けて、和真は叫びつづけた。

「あー、もう! 絶対バレるーっ」
「……もしかして、隠したかったんですか?」
 無言のうちにも顔を伏せ周囲から身を隠そうとする姿は、哀れというよりももはや笑いの領域だった。
 終演直後、ステージから降りるやいなや、翔は荷物をまとめてある物陰へと駆け込んだ。てっきり誰もが急ぎの用事でも思い出したのだと思えば、そのままもっと陰へと逃げたのだ。
「無理だよな、最初から」
「なあ……」
 身長だけでも、異様に目立つだろう彼なのだ。いまさらどう隠れようというのだろう。
 追いかけてきた三人のうち、達彦と政人はうずくまる彼を前にがっくりと肩を落としていた。
「でもわざわざ隠れなくても。格好良かったよ? ね、先輩」
 慰めなのか、ただ本気なのか。血だらけのスティックを握りしめたままの相手へ、和真は必死に呼びかける。恋人の欲目とは一概には言い難い。だが達彦はそんな和真を渋く見つめている。
「ねえ、先輩ってばぁ!」
「マトモに出来ないことなのにしゃしゃり出てるなんて、いちいち思われたくないんだっ」
「……まともに出来ない?」
 言葉に違和感を感じたのは、彼以外の全員だっただろう。実とはちがう演奏ながら、彼は彼なりのベストというだけでなく、共演者に正しく感銘を与えている。そうでなければ一体感のある爽快な演奏など成り立たないのだ。
 だが傾げられた首のうちふたつは、それに対してだけではなかった。
「そんなに隠したいなんてなぁ……」
 目立ちたがりだとは思っていなかったが、ここまでとは。見交わした瞳は、意外性に見開かれている。存在だけで目を惹く相手であればなおさらだ。ここ数週間でかなり親しくなったと思っていた彼らだが、今日はたった一日でまだ知らなかった姿を見せられている気がする。
「よかったよー、みんなっ」
「ああ、結城サン」
 それぞれが自分の世界に陥りかけたころ、すこし離れた場所から手を振りながら結城が現れた。その逆の腕に抱えられているのは、当然のように一眼レフである。興奮冷めやらぬといった体は、その足すら速めているのだろう。
「撮り甲斐があったよ……って。なに、こいつ」
「いや、その」
 だが三人の足元にしゃがみこんでいる親友をみつければ、その顔も怪訝に歪む。
「自分だってバレるのが、どうしてもイヤだとかで」
「イヤだろうがっ! みっともない。せっかく学校だけではおとなしくしてきたのにっ」
 仮面をかぶってない姿をさらすなど、多分に怖くてできたものではない。誰もがそうして自らの心を守っているのだ。だがそれがとうに剥げかけていたことに、彼は気づいていないのだろうか。それとも自分たちの前だけだったのだろうか。
(やっぱりステージを一緒に踏めばもう仲間なのかもな)
 視点を切り替えて、政人はちいさくほくそ笑んだ。
「どうかしたの?」
「いえ、ちょっと。でもわかります、よねぇ」
「どうだろうねぇ」
 肯定されるとばかり思っていれば、その答えには驚きしか返せない。
「それより、打ち上げ。行こう?」
 はぐらかされたような気もするが、追及したところでさほどの意味もないだろう。
 だが軽く肩を叩かれて、にっこりと笑いかけてくる相手に従うことにした。
「……そうですね。達彦も」
「あ、うん」
「おら、翔! 行くよっ」
 軽く蹴るようなそぶりに、ようやくにしてうずくまる彼も行動する気になったようだ。ここで遠巻きながら視線を浴びるくらいなら、早々に移動すべきという頭もあったのかもしれない。
「その前に手ぇ洗ってこい、準備しておくから。……あ、ごめんね」
 のろのろと立ち上がる彼の傷が目に入ったのだろうか。促したはずの結城は、周囲にすこしだけ待ってほしいと言い出した。そんな彼を後目に、原因となった男は無言で歩き出す。羽織りかけたシャツは、あまりの汚れぶりに置き去りにされていた。
「……スプラッタ、だよな」
「ああ。これってあんときに付いたんだろ?」
 脱ぎ捨てたときに掴んだらしい箇所は、まだ生々しく塗れている。ステージにいた彼らからは見えなかっただろうが、客席からはその色の鮮やかさまでもインパクトとなったものだ。ほんの一瞬でついたという血液量は、練習のすごさをあらためて見せつける。そんな手で最後までスティックを握っていたことも驚きだ。濡れれば滑りもするし、傷を負えば当たり前に握力も落ちるだろうが、それ以上にかなり痛いはずだ。
 しかしそんな感嘆から向けた視線の先では、水道の蛇口から流れる水にザーザーとその手が晒されている。よくも無頓着にそれだけの傷を洗えるものだ。思わず呆れに替わったため息がこぼれ落ちる。
「トモー、準備できたかぁ?」
 少しだけ気力が回復したのか。他者の視線をものともせず戻り来た男は、悠然と声をかける。
「ああ。ほらよ」
「まどろっこしいよな。おい」
「あ、かけるんじゃないのな」
 ほんのすこししかめられた表情に訳知り顔をみせた結城は、手にしていたプラスチックボトルを洗面器にすべて空けた。何をするのだろう。興味津々に様子を窺っていた達彦と政人は、次の瞬間にその顔を強張らせていた。
「……ッゥ」
 ドブンと洗い立ての手は、その液体に漬けこまれた。だいたいの血を落としていた手から、泡がいっせいに立ちのぼる。
「しかし、相変わらず痛覚ないね、おまえ」
「いや、さすがにいつもよりクル」
 この状況を目の前に会話として適当なのだろうか。平然と答える男の顔は、確かにしかめられている。
「おい、和真。あれは」
「オキシドールでしょ。傷、洗ってるんだよ」
「そうじゃなくって! あんな方法で」
「……もう見慣れた」
 和真の意見はふたたび彼らを凍りつかせた。
「っていうか、血まみれつっこんだときよりマシだって」
「血まみれ……」
「ピンクの泡が器いっぱいになるんだから」
 爪の周囲や手にする怪我とは、それなりにふたりとも縁がある。だが幻想的なイメージのピンクの泡が、どうにも血とはかみ合わない。むしろ偽り物めいて映るというべきか。
 だが想像の範囲にしても、あまり気分の良い物ではない。
「和真、やめてやれ」
 顔面筋肉をひきつらせた達彦に、救いの手を差し伸べたのは政人だった。医療系を目指すゆえに、和真も配慮が足りなかったと思ったのだろう。申し訳なさそうに肩を竦める。
「水洗いだけでいいんだけど、あんまり傷がひどいと綺麗に洗えないからって」
「アルコール消毒ってのは、さすがに痛そうだろ。だから」
 ひとしきり泡が消えたところで切り上げたのだろう。汚れたシャツのまだ綺麗そうな場所で手をぬぐっていた翔は、そうして和真の背中をはたいていく。どうやらもう血はとまったのだろう。
「ま、したければ打ち上げでしな」
「ビールでか?」
 傍らでなお笑みを深めた悪友に、荷物から新たなシャツを引っ張りだした男は舌を出す。灰色のそれを羽織ってメガネをかければ、着替えも終わったのだろう。頭をひとつ振った彼はすくっと立っていた。
「にしても、打ち上げねぇ。まだ学祭真っ最中だぜ?」
「部誌もなんとかなったんだろ? ステージも終わったし、もういいじゃん」
「そういえば、おいらの落とした原稿。どうしたんだろ……」
 ぽんぽんとしたやり取りに、ふとした疑問を感じたのは和真だ。編集をしていた彼ならば知っているだろうと小首を傾げて見上げれば、なぜか視線は絡むことなく逸らされる。
「じゃあ、さっさと移動するよー!」
 それを疑問に思う間もなく、結城の声が高らかに新たな状況を生む。全員がなんとなくその調子に巻き込まれたのだろう。誘われるままに歩き出す。
 もはや翔の落ち込みも、そしてライブ成功の高揚もどこかへ吹き飛んでしまっていた。

***

 日曜までつづいた学校祭もおわり、日常が戻りつつあるその翌週。
 和真は文芸内で一躍、時の人となっていた。
「いやいや。人気者だねぇ、おまえ」
 飄々と部室へ入り込んできた翔は、いつもの定位置へと向かうと和真に向けてにんまりと笑いかける。
「そう? ちやほやとはされてるけどさ」
「けど?」
「見事に関心はそっちにいったねー」
 こっそり突きつけられたのは、指一本。そうしてため息をつく相手をよそに男はガタンと椅子に座った。肩越しに振り返ったしぐさは、だがひどく余裕の窺えるものだ。
「謎のドラマーってヤツな」
 声だけは潜めて、だがくすくすと笑う男に怯えの色はもはやない。
「こいつが長かったのも、役に立ったな」
 伸ばされた手は、メガネにかかる前髪をするりと梳いていく。練習のために手を抜いて伸び放題だったことが、どうやら幸いしたらしい。
 以前はともかく、最近はすっきりと整えられていた髪型。その元の形へと戻すように切ってしまえば、ステージでの印象とは一気にかけ離れていく。メガネを常時かけていれば、なおのことわからないのだろう。皮肉げに笑んでも、理知的な表情だけがそこには残る。熱すぎるステージ上の、野性的なまでの男を探しているうちは、決して彼にたどりつくことはないだろう。
「いやいや、本当に人気者なことですねぇ」
「……こいつっ!」
 さきほどの相手の言葉を借りて意趣返しをすれば、こつんと降ってくる拳。けれどどれもがふたりならではのやり取りであれば、互いの表情から笑いが絶えることはない。
「しかし、どうしてここの部員でもわかんないかな……」
 着やせする体型が多少はあのステージとの差を生んでこそあれ、この身長。軽音のメンバーと交流がありそうな人間となれば、彼に見当をつけてもよいはずだ。少なくとも文芸内で彼の姿を見知らぬものはいない。
「ま、ステージ自体を見てたやつばっかりじゃないからな」
「写真だけじゃね」
 実物とつくられた写真。その間隙に潜んでいるのだろう。ある意味、結城の写真技術に感謝ともいえた。
 むしろ偶像を大量に出回らせることによって、彼は影に隠れ得たのだ。
「ううん。でも自慢したいとか思わないわけ?」
「……口外無用だからな」
 最前までの余裕ぶりはどこへいったのか。一瞬にして彼の顔から笑みは消えていた。
「しゃべったら?」
「おまえの、新歓コンパでの女装をバラす」
 内容ではない。一瞬の隙もなく叩き返されたこと自体に、和真は絶句させられていた。しかも発した相手は、稀にしかみせないだろうほど真剣な顔をしている。
「……しないくせに」
「おまえも、できないだろ?」
 ふっと緩んだのは、どちらの顔が先だっただろうか。

「ってことで」
「契約成立な」

 おどけた翔のウインクこそが、成約の証だった。


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Livingの続編です。
きっと翌年も巻き込まれるであろう、助っ人ふたりでした。

時間軸的には、Living!(漢字-06、07)→心理テスト→コレ




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