07: 完璧主義〈2〉


「なんとか、形にはしてくれたんだけどなぁ」

 それから数日後の、土曜日。イライラとした呟きは、珍しく達彦のものだった。
 合わせての練習ができる、唯一といっていい日だ。普段ならばもっともテンションがあがるはずなのだが、むろんその低さは今までと異なる面子のせいだった。
「最初のことを思えば、すごくないか?」
 だが彼の相手をする友人は、共感を示しはしなかった。苦笑しながらの指摘は、確かなものだ。
 やはりというべきか。こういう相手だとわかっているから安心して話せるというのもある。しかしその分だけどうにもすっきりとはしない。
「まあね。どうなるかと思ってたけど……」
「けど? シンプルすぎて、困るってことじゃないだろ?」
「いや、それはいいんだ」
 視線の先。件の男は手持ちのモバイルに向かいつつ、その恋人と軽口を叩いている。締め切りがどうの、ページが合わないだの。漏れる単語からするに会話の内容は、彼らの属するもうひとつの部活の件だ。
 もちろんいまは休憩時間。だからこちらも会話をしているわけで、それ自体はなんら問題はない行動だ。
「そう。いい、んだけど ―― 」
「どうした、タツ」
「ただ、こうなんて言うかさ、覇気っていうか……」
 爪を噛みながらのことばは、うまく形にならなかった。どうにもじれったい感覚をあらわす単語が、こんなときにみつからない。焦ればなお募るばかりのものだ。
 だが長年それなりにいっしょにいれば、通じるものがあったのだろう。
「単純っていうより、単調ってことな」
「なのかな。うん、たぶんそうなんだろうけど」
 装飾や華美さなど求めてはいない。彼のもたらす正確なリズム。それは確かにドラムにおいて、まぎれもなく必要なものだろうと思う。
 けれどこのバンドで表現したいのは ―― 。
 今のドラマーにとっては、しょせん和真につきあっての遊び。もしくは義理。だが達彦にとっては、高校から大事に創りあげてきた曲。そして温めてきたバンドなのだ。
「でもさ、頑張ってくれてると思うよ。俺は」
「確かにな」
 その意見は正しいだろう。政人とて同じくこのバンドを大切にしてきた仲間だ。元々口数の少ないその彼がわざわざそう言うことに、間違いはない。急な話だったのは達彦とて知っている。そして彼が中学校の部活動で叩いただけとなれば、レベルをとやかく言うのも失礼というものだろう。
「それにしても、あの手袋。暑くないのかよ」
 わかっているのだが、それでも何かしら顔をしかめることがやめられないのだ。
「気にならないか? 政人」
「……すべり止めなんじゃないか?」
「パソコン触るときまでかよ。繊細なこって」
 どうにもいまは勘に障るのだろう。軽くベースと戯れたそぶりを見せつつ、政人はそっと相手の様子を窺っていた。年上の、しかも手伝いをしてくれるという相手に対して、これほど口の悪い達彦などまず目にすることはない。相手があの和真の恋人であるという点を除いても、よほど精神的圧迫があるのだろう。
「どうにもノリが悪くなるんだよなぁ」
 短く切られた爪を噛みつつのこれが、結局は一番正解にちかい答えだろう。近頃の達彦の苛立ちは、その元凶である彼すらを含めて全員が気づいていた。
(一言、伝えれば済むかもしれないんだけどな)
 あの彼がどれほど練習を積み、かつもっと高度なプレイを試演しているかを。
 あれ以来、いっしょに練習したわけでもない。だが一度きりでもわかる烈しさは、慣れない手に相当な負担をかけていた。きちんと手当てをしているのか気にはなるが、聞かれたくはないだろう。もともと年下に気を遣われたくないだろうし、特に和真のいるところではなおさらだ。とはいえ知ったのは偶然だったが、口止めされたわけでもない。
 ならば。いや、それでもまだ伝えるわけにはいかない。
「さっさと本性を見せてくれればいいのに……」
 はじく弦にまぎれさせた呟きは、爪弾きだした姿に引き下がった達彦には決して聞こえないものだった。そうしてギターの音も混じり出せば、全員がそろそろ頃合いをはかりだす。それにはむろんドラムの傍らにいるふたりも含まれている。
「原稿が足りないんだよなぁ。誰かさんのせいで!」
「うう……、ごめんなさいぃ」
 どうやらやりこめられたらしい和真が離れれば、モバイルをシャットダウンした翔もまた軽く個人練習を始めるらしい。握られるスティック、もちろんその手から手袋が外されることはない。皆で合わせだすまでの、ほんの肩慣らしと指慣らし。互いに相手の音を聞きながら繰り返し自分の音を追求する。気づけば自分の世界に没入する瞬間でもある。達彦もその例外ではない。
 そうして彼がギターと一体感を楽しんでいた瞬間、悲劇は訪れた。
「いってーっ!」
 その背中を激しく打った衝撃に、喉は絶叫を吐き出していた。声自体は残響のギターと周囲の音にかき消されたが、そのおかしさに政人もベースを下ろす。
「いったい何が……って、これ」
「……ワリィ」
 しゃがみこみながら見回した達彦の視界に、大きな影が横切る。短いことばとともに、翔の黒革に包まれた手はスティックを回収していった。つまりは彼が手を滑らせたそれこそが、達彦を襲った痛みの元凶だったのだろう。めずらしいほどあっさりとした謝罪がその証だ。
「すべり止めの価値、ないじゃんかよ……」
 和真には手を振って大丈夫と答えたものの、さきほどまでの会話もあれば、心配げに駆け寄ってきた政人への愚痴は隠せない。むろんひどく遠慮がちにではある。
「あはは、確かに」
「そうだろう」
 あの黒い手袋が、にじんてくる血をごまかすものだとは言えない。今日もまたそこに傷があるのだということを知ってしまった政人は、乾いた笑いで濁すのが精一杯の行為だった。
 皮が厚くなるほどの期間もなければ、まだまだゆとりをもって演奏するだけの技量も身についてはいない。下手に力が抜ければ構えが狂い、余分なところにも傷ができる。キーボードを叩くだけで爪を割ることがあるという相手だ。その傷が癒えないのは当然だろう。
(無茶をさせてるよな……)
 どんな事情であれ、ここまでしてもらうことは気が引ける。だが誰にも明かせない限り、それをフォローしていくことがもっとも恩に報いることとなるだろう。
「ついでだし、そろそろはじめるか?」
「ああ」
 背中の痛みが治まったのか。そんな促しをむけた相手に、政人は新たな決意を秘めて頷いていた。

「もう一度、いきます」
「ああ」
 それから二曲。シャツの袖を折り上げても、翔の演奏は変わらぬベーシックなものだった。努めて単調なプレイはリズムを乱さないことだけに終始した結果だ。崩れた演奏など他のメンバーの邪魔にしかならない。そんなどこまでも客観的な視点に基づいてのものだろう。
 またなにより疲れすぎないように。あの手で個人練習を密かにするのならば、それが妥協点といえた。
「もっとそこ盛り上げて……っ!」
 だが何も知らされていない人間にとって、そんな相手とのプレイは苦痛でしかない。気分転換をしたはずの達彦は、焦れきったのか曲の途中で不協和音とともに下ろした。
「どうした」
「あんたこそ、いったいなんなんだよっ」
 問いかけは誰もが認める原因からのものだ。叫んだ反動で弦に触れた手は、彼の苛立ちを示すようにギャウンと鳴った。
「これが気に入らないなら、あいつの演奏したバージョンをPCで組んで流してやるぞ」
「そんなのは違うんだっ!」
 怯むことなく達彦は叩き返した。もはや聞き飽きたようなやり取りだ。空気まで痛くなりそうないきおいは、ネックを掴む左手にも表れている。
 必死なのだ、彼は。いや、きっと政人もだろう。ようやく得た発表の場なのだ。
(……でも先輩は)
 乗り気であろうはずがないことは、和真とてわかりきっていた。あくまでも義理、もしくは謝罪にすぎない。あげく頼まれれば嫌とはいえない性格をしている。それを知っていて、なお頼み込んでしまった。達彦と政人のことを思えばこそだった。
 思えばあまりに偽善的な行為だ。もっとも好きだと思う相手に、どうして強いることをつづけられようか。
「嫌なら無理しなくても……」
 いまさらだとは思った。それでも最後には彼の味方でありたい。
 和真は切なる願いで背後を振り返った。
「俺は最初からやりたいなんて言ってないぞ」
 だが、なにかが気に障ったのだろう。突き放した声音は誰に向けてのものよりも冷たかった。別段それまでが穏和な顔をしていたわけでもないが、急に頑なになった態度は明らかだ。
「あ……」
「なんだよ。じゃあどうしろってんだ」
「だったら……、だったらもう、来なくていいから!」
 そうして扉を開け放つ。だが走り出ていったのは、なぜか叫んでいた和真のほうだった。
「あ、あの……」
「タツ、なんか背中よごれてる」
「え、本当に? どこかで擦ったかな」
 うろたえるままに呼びかけた相手の言葉を、政人は素早く遮った。示した汚れの原因は、さきほど飛んできたスティック以外なにものでもない。けれども理由だけは告げずにおく。
「気づかなかったのかよ、結構ひどいってのに」
「うわー、まったく知らなかった。もっと早く教えてくれよ」
 狙いどおり、緊迫感は一気に弛んだ。
「帰る」
「え? ちょ、ちょっと待ってください」
「あいつがいなきゃ、どうしようもないだろ?」
 中断させてしまったものの、それは衝動的だったに過ぎない。これほどの大事を引き起こす気もなければ、達彦の焦りも相当だろう。だが素早く身繕いを済ませる男は、困ったように笑うだけだ。手袋をしたままにシャツの袖をもどし、ついでのように首から伸ばすコードも耳へと運ぶ。
「いつまでも、逃げちゃいられないですね」
「そうだな」
 背後からかければ振り返ることなく、だが端的に返される答えに迷いはない。そもそもよどみなくイヤフォンを填め込む動作が、いかに彼が聞き込んでいるかを示してもいるのだ。達彦がいくら焦れども、政人に不安はない。
「……お前の音は、堅実だよな」
 だがそのまま立ち去るかと思えば、意外にも彼はふっと政人を振り返っていた。
「堅実、ですか?」
「ああ」
 ヴォーカルは声量のもつパワー以外、これといった特徴はない。というか、そこにばかり注意が向くほどのパワフルさだ。また達彦のギターは、ついメロディーというかヴォーカルに引きずられる傾向にあった。そしてテープを聴くだに、ドラムも目立ちたがりだった。
 それをバンドとしてまとめていたのは、政人の力かもしれない。ベースをベースらしく演奏する心意気。それが彼の音にはある。
(俺が壊していいはずがない)
 三人、いや四人だったか。ともかく彼らがつくりあげてきたものを ―― 。
「すまなかったな、今日は」
 困惑したままのふたりを残し、ついに翔は動き出す。逆光を浴びて謝る表情は、誰も見ることが叶わなかった。

 その日から、次の練習日となる今日まで。彼の姿をこの部屋でみることはなかった。
 和真いわく、文芸にかかりきりだったらしい。
『声をかけるのも怖いくらい、切羽詰まってた……』
 そのおかげで彼らの亀裂は埋まったようだが、実際にコンテナで彼の姿を見たとき安堵の吐息をついたのはリーダーである達彦だけではなかった。なにせ勝手に拒絶したのだ、本当に辞められて困るのは和真だったろう。
 だがこの間のやり取りのせいか、コンテナの中はどうにも気まずい雰囲気に満ちている。とはいえ練習時間は限られている、しばらくの手慣らしののちついに達彦は切り出した。
「どの曲からやる?」
「……全部」
「え?」
 返答は思いがけないところから返ってきた。
「全曲、本番と同じく流してくれ」
「それは……」
 すべてとなると、かなりの時間もかかる。そして何より、体力も相当に費やすだろう。
 質問をしたはずの達彦は答えに窮していた。淡々と紡がれた声はドラムの陰から発されている。顔も見えなければ、声にも真意は窺えない。
「なあ」
 ひとりでは決めかねたのだろう。彼は目線を政人へと流した。だが相手はなにも答えることなく、ベースを既に構えている。そしてその視線はヴォーカリストに向けられていた。どこか浮き足だった和真は、達彦へとその顔をみせてきた。
「いけるか? 全曲」
「……え、あ。うん、おいらは大丈夫」
 描いたトライアングルは、ちいさな頷きで締めくくられた。
「合図」
「はい。それじゃあ」
 様子を見ていたのだろう。そっけなく発された翔の命令じみた口調に、いきおい他のメンバーも位置につく。だがいまだ達彦は戸惑いが隠せてはいない。代わりのようにカウントは政人から出された。
 そして一曲目。叩きだされたのは、いつもとは明確に違うリズムだった。ただひとりを除いて、全員が一瞬だけ音を乱す。それでも崩れないドラムに、演奏は引きずられた。
「やっとかよ……!」
 快哉をあげたのは政人だった。指を走らせる彼の耳には、確かにあのときの音が聞こえていた。
 これまでのベーシックな8ビートとは打って変わった演奏は、華やいだ装飾音がかもしだすのだろう。だがそれ以上に、一音のキレ。それが明確に異なっていた。
 聞かされたメモリーの音ほど正確ではない。けれどその乱れかかるテンポも、逆にいきおいを感じさせる。つくられた、あのコンピュータからでは出ない生の響きでの完成度が、あの以前の練習並に政人を乗せた。完成されつつあるのだ、あのとき以上といって問題ないだろう。
 それはむろん、彼だけではない。徐々に乗せられるギター。そしてヴォーカル。メロディーが謳えば、声もより感情豊かに伸びる。歌詞と曲が、そして心までもが一つに融ける。

 いくらでも歌い、奏でつづけたい ―― 。

 しかし終わりは確かにやってくる。
「完璧とまではいかないか」
 一体感のあるサウンドが静かに余韻を持って消えたとき、くすくすと笑いが漏れた。
「つか、握力がもたねぇ」
 カランと乾いた音が、笑いに重なる。転がる二本のスティック、それは明らかに赤く濡れていた。手袋越しにもそれだけの汚れをつけているのだ、耐えきれないのは握力の問題だけではないだろう。相当に痛いことはたやすく予想できる。
 だがその表情は、あくまでも愉しげに笑んでいた。清々しくもあり、挑発的でもある顔つきだ。
「せ、先輩っ」
「なんだよ、まだ不満だって?」
 驚き呼びかける和真に、タバコをくわえた男は言葉面だけはきつく問う。だが返る答えが否定であることは、もはや相手の顔をみた瞬間にわかっているのだろう。その表情にあるのはからかいだけだ。
「……先輩ぃっ!」
 だがいきなり抱きつかれたことで、その余裕は剥がれ落ちた。
「お、おい。ちょっと待てっ」
「ごめんなさい、ごめんなさいっ。それにありがとう……っ」
 感情のおもむくままにしがみつく相手は、いまにも泣き出しそうな声をあげる。だがそんな恋人を腕にしつつも、翔は汚れた手ゆえに抱き返すことも引き剥がすこともできずにいる。だが困惑しつつも、そんな相手の後頭部を見下ろす姿にはまんざらでもない雰囲気がにじんでいた。
「もうそろそろ、離れろ。な?」
「あ! でもその手っ」
 拗ねたそぶりで口を尖らせた和真は、すこしでも汚すまいとした彼が手袋を外した瞬間、看護師の卵へと変貌する。
「爪だけじゃないじゃん。てっきりこれ以上キーボードとか汚さないためだと思ってたのに……」
「あ、う……、すまない」
 きっと文芸での作業中もだまし通していたのだろう。ぐっと手首を掴まれた翔は、わずかばかり肩を竦めている。悪びれたそぶりをかけらすら見せなかった男のそんな弱さは、だが演奏中の雰囲気との裏腹さでどこか心を和ませてくれる光景ともいえた。
 そのおかげで、あっけに取られてふたりを見やっていた達彦もようやく息を吐けたのだろう。
「爪が割れてるのは前提かよ」
 お手上げとばかりに笑って、彼は蚊帳の外であろうもうひとりの相手へと顔を向けた。
「それにしてもあれってば、なあ」
「ようやく本気になったんだよ」
「政人、おまえ知ってて……?」
 同じく驚いているはずと思っていた相手の答えに、達彦はあわてて詰め寄っていく。だが相手は沈黙を金とするような政人だ。
「完璧になるまで、隠しておくかと思っていたけど」
 口元だけを緩めた笑みはどことなくそっけない表情にもみえる。まだ翔が完璧ではないと思っていることを示しこそすれ、彼はあくまでも飄々としていた。
 だがひとつだけ確認したいことは、そんな彼にだってある。
「で。お前もまだ不満?」
「……根性の悪さも、伝染ったのかよ」
 親友のみせる性質の悪い笑みに、達彦はまずぶすくれる。だがそんな顔は長くつづけられはしない。もちろん政人もだ。
 確かに実のプレイとは異なっている、けれど。
「まったく。バケやがって……っ!」
 ひさしぶりに味わう、演奏後の爽快感。
 吐き捨てるようなコメントは、それでも期待に満ちたまなざしに支えられていた。



漢字-07:完璧主義〈1〉 ≪≪≪   ≫≫≫ 漢字-04:完全黙秘



漢字-06>漢字-07(>心理ゲーム)>漢字-04




≪≪≪ブラウザ・クローズ≪≪≪