初めての切腹 〜鼠経(そけい)ヘルニア根治術〜
80歳を超えて、本格的な手術や入院の経験がないことを密かな誇りとしていたが、ついに打ち破られた。正直に言えば、前立腺がんの検査入院や、歯科での麻酔とか手術は体験したが、それとは大違いなので、その経緯を記録に留めることにした。
今年7月下旬、腹部の膨満感や下腹部にときどき鈍痛があり違和感に気づいた。数日様子を見ていたが、8/7右下腹部が明らかに膨れているのを発見した。押しても痛くはない。早速「下腹部の膨れ」で検索すると鼠径ヘルニアと推定できた。いわゆる脱腸。男性の1/4がかかる。40代以上の高齢者に多い。腹筋が弱くなり、強い腹圧がかかると小腸が皮膚の近くまで飛び出しやすくなるからだ。根治するには手術しかない。入院は5日以内で済む。病名と対処法が明らかになり、覚悟はできた。現実は覆りそうにないのだから、平常心で明るく前にステップを踏み出すだけだ。
振り返れば思い当たることはある。私は頻尿で「2回以上の夜間頻尿があると死亡率は29%増加」という言葉におびえ、熱中症は心配しつつ、夏場でも水分の吸収が少なめになっていた。そのため6月末頃から便が固くなり排便に強い腹圧を要した。農作業の力仕事もあるが、排便が直接の引き金ではないか。
翌8/8、かかりつけ医で即座にヘルニアと断定され、最寄りの津島市民病院(外科)への紹介状を手に入れた。翌8/9、市民病院でCTを撮影し、主治医から右鼠径ヘルニアの病名を言い渡された。早期手術をお願いすると、手術方法や懸念される合併症について説明したうえ、鼠径部切開法か腹腔鏡下修復術かの選択を迫られた。当病院の最近の実績はほぼ半々だが、腹腔鏡が上昇傾向にある。迷ったすえ@術後の痛みに大差はないA切開法は傷口が5pほど残るが過去の実績は多いB全身麻酔ではなく下半身のみの麻酔で負担が軽いC手術時間が短いD費用が安いなどの理由から、鼠径部切開法に決めた。
手術前検査として血液、尿、X線、心電図、心エコーなどが続いたのち、2週間後8/23に手術、前後2泊3日の入院と決まった。退院後の飲食にアルコールも制限がないのは朗報だ。その後も人を替えて@手術の流れA麻酔の方法B入院案内の説明が続いた。通算3時間にわたり、多くの場所を移動し、初めてで立て続けに説明を受けて消化不良気味だが、8月中の手術日まで早々と確定できて何よりだ。
8/22 14時ごろ病室に入り、手術、特殊検査同意書、麻酔同意書、入院保証書など6種類の署名済み文書を提出した。南病棟5階566号室。4人部屋の窓側でセーフティボックスなどの備品も、私には必要かつ十分だ。検温等やへそのゴマ掃除を終えて14:30にはフリーとなった。夕食も200gの飯は多めで、全体として質、量、味とも想定以上だった。明日が本番なので、気ぜわしい朝の時間経過をシミュレーションしておく。当病院初めての入院生活、手術室や麻酔のことなど様々な不安はあるが、それと同程度の興味深さもある。
8/23 深くは眠れないまま起床。7:30で飲水禁止、朝食はなし。手術着に着替え、エコノミー症候群になるのを防ぐ弾性ストッキングをはき、9:30妻に見送られて手術室へ入った。入口の輝きと堅牢さは愛昇殿のよう。天井にはERやドクターXなどで見慣れたシャンデリアが輝く。手術用のベッドに横たわる。枕はなし。眼鏡は外され、マスクはそのまま。寝ていても掛け時計は見える。まずは麻酔注射、脊髄くも膜下麻酔だ。横向きになり背を丸め、消毒したうえ腰にブスリ。痛いが我慢できる程度で、麻酔はすぐ効いた。冷却剤を使って麻酔の範囲を確認され、大丈夫のようだ。バスタオルをかけて下着を外された。看護師が手分けして体温、血圧、酸素飽和度等の測定機器に接続し、点滴装置も終えた。その間も専属のベテラン看護師が付き添い、優しく声をかけて孤独と緊張を和らげてくれる。細いベッド上で両手は横に広げて固定され、キリストのような体勢で開腹を待つ。文字どおり「まな板の上の鯉」であり、うまく調理されるのを祈るばかりだ。患者が手術中の患部を見えないように措置され、承諾のうえ一部の体毛が剃られた。
10:05主治医ら2人により手術が開始された。切開したときの具体的な動きはまったく感じない。医師のマスク越しの会話もよく聴き取れない。5分ごとに測定する血圧計が音を刻む。手術内容は、伸びきった膜を切り取り、メッシュ(人工の膜)で出口を補強するとのこと。退屈になり、ときどき掛け時計を見て時間の進行を確認するだけだ。終了予定は11:45だったが、11:05「終わりました」の声がした。手術は実質1時間で順調に完了したようだ。
通常のベッドに移って廊下を個室へ移動中、天井を見ていると目が回りそう、エレベーターの扉を見たときは火葬場で納棺するときの眺めのよう。11:15個室で2時間ほど安静にする。枕をお願いした。妻に再会し、手術の様子や相部屋では控える話を報告できた。全身麻酔でなくて良かった。笑うと下腹に響く。眼鏡と今日の新聞を受け取り一読する。あとの時間は、肩の凝らない東海林さだおのエッセイを読む。徐々に足の指先を動かせるようになった。13:50元の病室へ戻った。立てるが歩けない。動くと腹が痛い。咳やクシャミをすると最悪だ。やっと飲み水が許され、妻は心配の表情を残しながら帰宅した。麻酔の戻りとともに痛みが増し16時頃がピーク。その後は痛み止めの点滴が効きだし小康状態。オナラが出はじめ腸活が戻ったようだ。夕食を完食後、初めてトイレに立ち、血尿もなかった。就寝前には点滴が終わった。
翌24日、早朝の主治医の回診で「少し腫れがあるが順調なので今日退院してもいい」とお墨付きをいただいた。急激な動きは患部に響くが、ゆっくりなら歩いて何でもできる。退院後の留意点は@風呂は4日後から(シャワーは可)A過度に腹圧のかかる動作は避けるB食事の制約はなし。次回の診察日は12日後の9/5と決まった。10:15退院。キリストの思し召しか、下界は最高27.5℃の過ごしやすい1日が復活していた。日常に戻るには最適な環境だ。夕食には双方の労をねぎらって泡で乾杯!!翌日、農作業にも戻り、遅れを挽回した。残る痛みや違和感は、1か月後には失せる見込みだ。
わずか2泊3日ではあったが、この初めての切腹は貴重な試練であり、得難い体験だった。@短期間に数々の説明を理解し、いろいろな制約や約束事や指示を間違いなく実践することA十分な準備をして臨むことB初めての場所、人、事柄に前向きに適応していくことC病状、手術、術後についての不安により精神的に押しつぶされない強い心を持つこと……。一昔前の病院とは違い、医師、看護師、職員らの言葉や所作は弱者に対して丁寧で、心がこもっている。これらに支えられて修羅場を無事乗り切ることができ、感謝しかない。事態がコロナ禍だったらと思うと、運も味方してくれた。
今回の最大の収穫は、手術と入院生活を実体験したことにより、患者の立場と視点をしっかり長期記憶に残せたことだ。傷つくから優しくなれる。同様の体験が少なくない同世代の友人とも、今後は心から共感して話を交わすことができる。先のことを考えると、入院や手術は度々ありそうで、今は序の口にすぎない。老夫婦にとって更に体力が衰えたり認知度が悪化したりすると、移動や患者の世話や家の守りなどで厳しい局面が予想される。それに対する日常の備えが、いま求められているのだ。
2023.8.31