明智光秀の前半生については分かっていないことが多く(生まれた年も、父親の名前も分かっていません)、生誕地ではないかと言われている場所も岐阜県内に数ヶ所あります。ここではそのうちの5ヶ所を紹介しましょう。 1.明智城(長山城,明智長山城) ~岐阜県可児市瀬田~ 明智光秀は美濃の土岐氏支流明智光綱の子として 1528年(享禄元年)頃に岐阜県可児市瀬田にある明智城で生まれ、明智城が落城するまでの約30年間過ごしたと伝わっています。 居館跡には「光秀産湯の井戸」と伝えられている井戸(右の写真)があり(現在は耕地整理されて痕跡は残っていません)、当時使用されていた土器破片が出土しているようです。 近くの天龍寺には明智氏歴代の墓所があり、本堂には日本一大きな光秀の位牌(184㎝)が納められています。 明智光秀の生誕地として最も有力とされているのがこの明智城です。 2.明知城(白鷹城) ~岐阜県恵那市明智町~ 岐阜県恵那市明智町にあった明知城(白鷹城)には天神神社と明智光秀公学問所があります。万ヶ洞天神神社は、明智光秀が若かりし頃、京都嵯峨天竜寺の雲水・勝恵という学僧を招き、ここで学問に精進したといわれています。 この明知城の出城として築かれたとされているのが落合砦で、「土岐明智城」「多羅砦」とも呼ばれています。 この砦で光秀が生まれたという説もあり、明智光秀産湯の井戸(右の写真)が現在も残っています。 ただ、恵那市明智町に居たのは、遠山氏の一族である明知遠山氏で、光秀の土岐明智氏ではありません。可児市のパンフレットには、「(恵那市明智町に)土岐明智氏が居た可能性はない」とあり、恵那市のパンフレットには「室町時代の明智町の勢力図」として白鷹城(明知城)は明知遠山氏が、土岐明智城(多羅砦)と仲深山砦は土岐明智氏が治めている図が載っています。 3.多羅城 ~岐阜県大垣市上石津多良地区~ 『群書類従』収録の「明智系図」では、明智光綱(光隆)と妻(武田義続の妹)との間に、1528年(享禄元年)3月10日に生まれたのが光秀で、美濃の多羅城で生まれたとされています。 この多羅城とは岐阜県大垣市上石津多良地区にあった城で、土岐市とはほとんどゆかりがありません。そのため、この多羅城を、恵那市明智町の多羅砦を指すのではないかと考える人もいるようです。 また、『明智一族宮城家相伝系図書』(東京大学史料編纂所)では、明智光秀は1528年(享禄元年)8月17 日に石津郡多羅で生まれたとされています。 明智家当主明智光綱(光隆)の妹が、石津郡多羅を居城としていた進士信周に嫁いだのですが、兄の光綱に子供がいなかったため、光綱が妹夫婦の次男を養子として迎えました。この子供が明智光秀であるというものです。 ちなみに上石津多良地区は、関ヶ原の戦いで有名な「島津の退き口」のルートといわれており、島津豊久の終焉の地であり、墓があります。 4.土岐氏一日市場館 ~岐阜県瑞浪市土岐町~ 明智氏の祖である美濃源氏・土岐氏発祥の地として伝わっているのが岐阜県瑞浪市土岐町にある一日市場八幡神社。この神社にある明智光秀公像の横にある「明智光秀公伝承」には、「清和天皇に発した美濃源氏は一日市場館に土岐頼貞を初代守護として発祥した。頼貞の九男、頼基の子頼重が明智氏初代となった。八代頼尚の子頼典が文亀二年に土岐信友の高屋館に故あって居住、其の孫として生まれたのが光秀で、一日市場館屋形の井戸水で湯浴み、二歳にして明智城代光安に引き取られたと古くから伝承されている。」とあり、ここも候補地の1つではあるようです。 5.桔梗塚 ~岐阜県山県市美山町中洞~ 明智光秀が山崎の戦いで死んでいなかったという伝承は南光坊天海説が有名ですが、岐阜県山県市には死んだのは光秀の影武者で、光秀は「荒深小五郎」と名乗り生きていたという伝承があります。 その後、関ヶ原の戦いに東軍として参加しようとしましたが、増水した川で馬とともに押し流され溺れ死んだと伝わっています。その明智光秀の墓が桔梗塚です。 この桔梗塚のそばにある白山神社には、明智光秀は1526年(大永6年)8月15日、土岐美濃守重臣の土岐元頼(基頼)と地元武儀の豪族中洞源左衛門の長女お佐多との間に生まれ、7歳の時に可児の明智城主明智光綱の養子になったとの伝承があります。 白山神社には明智光秀産湯の井戸が、また、神社近くの武儀川には、光秀の母お佐多が懐妊したときに「生まれる子が男の子なら、3日でよいから天下を取るような立派な男の子を授けてください」と祈ったと伝えられる「行徳岩」があります。 Tweet |