城 巡 り


旅行に行くとそこにある城や神社・仏閣に行きます。遺跡に行くこともあります。
むしろ、それが旅行の目的であることもよくあります。
振り返ってみると、私の旅行の目的は、自然・歴史・文化がキーワードになっているような気がします。
そのなかで、ここでは城にスポットを当ててみたいと思います。



忍城 広大な沼地と自然堤防を生かした要害堅固な城で、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した攻城戦の際、豊臣方の水攻めに耐え抜いた逸話を映画化した「のぼうの城」により有名になりました。

江戸城 皇居東御苑に天守台や松の大廊下跡があります。2017年2月に松江市で見つかった「江戸始図」(徳川家康が築いた当初の江戸城を描いた最古級の絵図)により、天守は「連立式天守」だったことが確実となりました。

金沢城 加賀藩主前田氏の居城で高山右近が縄張を指揮したといわれています。白漆喰の壁にせん瓦を施した海鼠壁と軽量(冬の積雪に耐えられる)で有事には鉄砲弾にもなる鉛瓦が特徴です。日本三名園の1つ「兼六園」のすぐ隣にあります。




丸岡城 現存天守で最古の建築様式を持つ平山城で重要文化財七城の1つです。柴田勝家の甥勝豊が築城しましたが、今では本多作左衛門重次が陣中から妻に宛てて送った手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」で有名です。
越前大野城 金森長近によって築かれた城で、竹田城備中松山城と並んで「天空の城」として有名です。大野城に行くよりも、向かいの犬山にある撮影ポイントに行く方が大変です。
北の庄城 柴田勝家の北庄城は、天正3年(1575年)に築きはじめ、完成をみないまま、天正11年(1583年)に落城したことが記されています。現在の柴田神社の場所にあったと考えられる天守閣は7層もしくは9層構造で、安土城に匹敵する巨城であったとも伝えられています。
福井城 徳川家康の次男結城秀康は慶長5年(1600年)に初代北ノ庄藩(後の福井藩)主となり、翌年から6年掛かりで、北庄城の大修築を行いました。天守台近くには、福井の名の由来になったとする説の残る名井「福の井」があります。

松本城 国宝五城の1つです。松本城天守群は、大天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の五棟で形成されています。大天守と乾小天守を渡櫓によって連結し、辰巳附櫓と月見櫓が複合された連結複合式の天守で、どこから見ても、美しい姿です。




阜 
岐阜城 斎藤道三公の居城だったころは「稲葉山城」と呼ばれていましたが、織田信長がこの城を攻略し、地名を「井の口」から「岐阜」に改称しました。信長は稲葉山城の縄張りを破却して、全く新しい城を築きました。信長はここで「天下布武」の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになったといわれています。竹中半兵衛重治を有名にした城でもあります。
大垣城 関ヶ原の戦いの際には、石田三成らが入城して西軍の根拠地となりました。
その頃の城内の様子が「おあむ物語」として残されています。
墨俣城 墨俣一夜城跡の公園内に、大垣城の天守を模した墨俣一夜城歴史資料館が建てられています。
菩提山城 竹中半兵衛重治の居城です。竹中重元・重治・重門の3代にわたり使用され、重門が麓の竹中氏陣屋に居を移したことにより廃城となりました。
竹中氏陣屋 櫓門前には竹中半兵衛重治の銅像がありますが、築いたのは半兵衛の子重門です。江戸時代に竹中氏が旗本の身分に留まったため、陣屋と呼ばれるようになりました。
岩村城 高取城,備中松山城と並んで日本三大山城といわれています。1572年から1575年に起こった武田氏と織田氏による岩村城の戦いの中でおきた「女城主おつやの方」の悲哀の物語が残されています。
苗木城 山城ベストランキング第1位になった苗木城ですが、本丸手前から見た大矢倉は日本のマチュピチュという名にふさわしい眺めです。また、懸造りで出来ている天守展望台の上では日本の山城で唯一歩かずに360°見渡すことが出来ます。
明智長山城 2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公・明智光秀の生誕地最有力候補地です。明智光秀の前半生についてはわかっていないことも多く、生誕地ではないかといわれている場所も岐阜県内に5ヶ所ありますが、城址北麓の天龍寺には明智一族の墓所が整備されています。
明知城 日本大正村として整備されている一角にある城跡で、ここも明智光秀生誕地の候補地です。千畳敷砦には「光秀産湯の井戸」があります。入口から本丸まで説明板が多く、遺構がわかりやすいです。
美濃金山城 1565年、織田信長の家臣、森可成が城主となりました。この年に森乱丸(森蘭丸)が生まれていることから、ここが森乱丸の生誕地だと考えられます。蘭丸広場のすぐ下には「伝 蘭丸産湯の井戸」があります。
多羅城
(城ヶ平)
大垣市上石津多良地区にも明智光秀生誕地の候補地があります。進士家の居城・多羅城です。多羅城は場所等の特定には至っていませんが、羽ケ原の城ケ平が光秀誕生の多羅城跡と考えられています。


浜松城 徳川家康は29歳から45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。家康はもちろんのこと、歴代城主の多くが江戸幕府の要職に就いたことから「出世城」と言われるようになりました。
駿府城 徳川家康は、1585年から居城として駿府城の築城を始め、1589年に完成させますが、豊臣秀吉の命によって関東に移ります。しかし、1605年に将軍職を秀忠に譲った家康は、その翌年駿府に戻ってきました。




名古屋城 日本三名城の1つで、伊勢音頭にも「尾張名古屋は城でもつ」とうたわれています。天守の金鯱(金のシャチホコ)が有名です。
犬山城 国宝五城の1つです。小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉の本陣となり、関ヶ原の戦いでは岐阜城・竹鼻城などと共に西軍の拠点となりました。
岡崎城 1524年に松平清康が入城して以降、松平氏の本拠地となりました。その後、1590年に城主となった田中吉政が石垣の城に大改修しました。
徳川家康生誕の城のため「神君出生の城」といわれています。
清洲城 清洲同盟や清洲会議の舞台となった城です。桶狭間の戦いでは、信長は清洲城で幸若舞「敦盛」を舞った後に出陣の身支度を整え、熱田神宮に向かっています。
小牧山城 清洲城の織田信長が、織田信長が美濃攻めの拠点として築城した城です。小牧・長久手の戦いでは、徳川家康が本陣を置きました。
那古野城 名古屋城の二の丸跡付近にあったとされる城で、つい最近まで、織田信長生誕の城とされていました。(現在では、信長は勝幡城で生まれたとの説が有力です)



津城 江戸時代初期に築城の名手・藤堂高虎によって近代城郭として大改修され津藩の藩庁となりました。織田信長の妹のお市の方や姪の茶々、初、江が一時期過ごしていた城でもあります(織田信包に養われていました)。
桑名城 桑名市街の東端に位置し揖斐川に臨む水城で、城の北辺には七里の渡しがあり、交通の要衝となっていました。1601年、大多喜城主の本多忠勝が10万石の城主として移り、本格的な近世城郭や城下町を造りました。
赤木城 築城の名手・藤堂高虎が主君である豊臣秀長の命によって築城した平山城です。高虎の城らしく石垣も立派ですが、虎口は岩盤を削った上に石垣が積まれており、削った跡がよく見えます。最近では「天空の城」としても人気があります。
鬼ヶ城 1523年(1521年とも)頃、坂上田村麻呂による鬼退治の伝説をもつこの地の山頂に、この辺り一帯を治めていた有馬和泉守忠親が造った隠居城です。



彦根城 国宝五城の1つです。徳川四天王の1人井伊直政の遺志を継ぎ、井伊直継が築城した城で、江戸時代には譜代大名である井伊氏の居城でした。
ひこにゃんのゆる~いパフォーマンスが最高です。
安土城 織田信長によって築城された城で、その天主閣は地下1階,地上6階で高さが約32メートルあったといわれています。「信長公記」によると、信長は、天正9年7月15日に安土城の天主閣と惣見寺にたくさんの提灯を吊させ、新道と入り江に浮かべられた船にはそれぞれに松明を灯させるという、日本初のライトアップをしています。
長浜城 豊臣秀吉は、浅井氏を滅ぼして小谷城主となりましたが、山の雪と寒気に悩まされ、翌春より今浜城の建築に着手。今浜を長浜と改めました。


姫路城 国宝五城の1つで、日本三名城の1つでもあります。また、世界文化遺産でもあります。黒田重隆・羽柴秀吉・池田輝政らが城主となっており、現在の姫路城は池田輝政によって築城されました。黒田官兵衛の生誕地だともいわれています(他にも説あり)。
竹田城 天空の城としてあまりにも有名になってしまいました。
竹田城趾に行って見たあとで、立雲峡から竹田城趾を見ることをおすすめします。

松江城 国宝五城の1つです。松江城は全国で現存する12天守のなかで、正統天守閣といわれているそうです。築城時の姿を今も残している堀を遊覧船で周回する堀川めぐりや塩見縄手散策もおすすめです。


岡山城 川面に映える漆黒の城です。岡山城天守閣の天守台が不等辺五角形をしているため、1階が天守台の形そのままに五角形をしています。その姿を見せる月見橋からの眺めがおすすめです。無料着付け体験もおすすめです。
備中松山城 重要文化財七城の1つです。NHK大河ドラマ「真田丸」のオープニングに使用され、天空の城ブームとのダブル効果で一躍人気となったのが備中松山城です。二の丸で食べる弁当は最高です。「備中松山城雲海展望台」のすぐ近くまで車で行くことが出来ます。
備中高松城 羽柴秀吉による水攻めの舞台として有名ですが、このときに本能寺の変がおきており、黒田官兵衛が秀吉にかけた一言や中国大返しの舞台でもあります。清水宗治の首塚の近くには「「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」という辞世の句の碑もあります。

福山城 福山城は徳川家康の従兄弟でもある水野勝成が1619年、備後10万石の領主として入府し、一国一城令発布後の1622年に完成した城です。

丸亀城 重要文化財七城の1つです。丸亀城は生駒親正がその子・一正と共に高松城の出城として慶長2年から5年がかりで築いた城です。「石垣の名城」といわれるだけあって、石垣の高さ(高さ日本一)と美しさ(扇の勾配)に圧倒されます。




松山城 重要文化財七城の1つです。松山城の築城に着手したのは加藤嘉明ですが、広大な平山城の完成直前に会津藩へ転封となり、次に城主となった蒲生忠知が二之丸などを完成させました。松山城の天守は、姫路城と並ぶ典型的な連立式天守です。
宇和島城 重要文化財七城の1つです。築城の名手・藤堂高虎が既存の丸串城を利用して築城しました。現在の天守は、高虎が創建した望楼型天守を、宇和島伊達家2代宗利が3重3階総塗籠式、層塔型に再建したものです。
今治城 築城の名手・藤堂高虎が約6年の歳月をかけて完成させました。創建時の五層天守は、史上初の「層塔型天守」で、その後の天守のモデルになりました。この天守は、丹波亀山城に移築されたと伝わっています。
大洲城 天守は1888年に取り壊されてしまいましたが、台所櫓・高欄櫓・苧綿櫓・三の丸南隅櫓は解体を免れ、国の重要文化財に指定されています。4層4階の天守は、2004年に木造で復元されました。
湯築城 湯築城は、中世の伊予国の守護であった河野氏が南北朝期から戦国期まで約250年間にわたって居城としていました。加藤嘉明が松山城を築城するまでは、ここが伊予の国の政治・軍事・文化の中心だったのです。

熊本城 日本三名城の1つです。加藤清正が築城した熊本城ですが、西南戦争によって天守を含め、多くの建物を焼失しました。そのときに消失を免れ、当時の姿を残している「宇土櫓」は2016年の熊本地震でも倒壊しませんでした。

中津城 黒田孝高(黒田官兵衛/黒田如水)が築城し、細川忠興が完成させた城です。今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられています。


首里城 「首里城跡」が世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)に登録されています。琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城でした。正殿とともに、守礼門が印象的です。
座喜味城 「座喜味城跡」が世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)に登録されています。読谷山の按司護佐丸が築城したといわれている城で、見事な石垣が続いています。