岡崎城(愛知県岡崎市)
岡崎城は別名「竜城」「竜ヶ城(たつがしろ)」といいます。 岡崎城は享徳元年(1452年)または康正元年(1455年)、明大寺の地に 西郷稠頼(西郷弾正佐衛門稠頼)およびその子頼嗣(岡崎城のパンフレットでは、稠頼と頼嗣は同一人物としているようです)によって築城されました。城が完成した時に、美しい紅袴を着た乙女が天守閣に現れ、『我は、この地に久しく住める竜神なり。我を鎮守として祀らば、長くこの城を守り、とこしえに繁栄不易なるべし。』と告げます。このときの様子を岡崎城のすぐ横にある龍城神社(たつきじんじゃ)の社記には「おりしも城中の井水噴き出で、高く天に沖し飛瀑の如く龍神に注ぎ、一群の黒雲舞い下りて天守を包むと見るまに龍神の姿は忽ち消えうせた。」とあります。稠頼は驚き、天守閣に竜神を祀って城の名を『竜ガ城』(新編岡崎市史では『竜ガ城』,龍城神社の社記では『龍ヶ城』)、井戸の名を『龍の井』と名付けます。 この「龍の井」は岡崎城のすぐ前にある「東照公遺訓碑」のすぐ裏にあります(上の写真の右下に屋根が写っています)。
余談ですが、岡崎城のパンフレットや新編岡崎市史では「竜」の字が使われ、龍城神社では「龍」の字が使われています。なぜでしょう。ちなみに岡崎公園の北西にある橋は「龍城橋(たつきばし)」です。 話を元に戻します。その後、頼嗣が松平信光に敗れ、信光の五男の光重を初代とする岡崎松平氏が城主となります。松平氏の居城となった後も、城は竜神の加護を得て、敵の攻めにあっても黒雲が城を包み、その目を欺いたといいます。 享禄4年(1531年)に松平清康(家康の祖父)が明大寺から現在の位置に移して以来、ここが岡崎城と称されるようになりました。 天文11年(1542年)12月26日に徳川家康がこの岡崎城で生まれました(「徳川家康公銅像」の案内板によると、二の丸で生まれました。二の丸は現在岡崎公園内にある能楽堂のあたりになります)。この時、岡崎城の上に黒雲が渦巻き、風を呼んで金鱗の竜が姿を現したといいます。 岡崎公園内(岡崎城の西)には、「東照公産湯の井戸」と「東照公えな塚」があります。
岡崎城内で生まれた竹千代(徳川家康)の産湯にこの「東照公産湯の井戸」の水が用いられました。こういう井戸は得てして涸れているものですが、現在でもこの井戸の水を汲み上げて、浄水設備を通したあと触れることができるようにこの井戸のすく隣で常時流れています。 「えな」というのは「へその緒・胎盤」のことです。徳川家康の「えな」を埋めたと伝えられる塚がこの「東照公えな塚」。古来、日本では「えな」を埋めて子供の成長を願ったといわれています。もとは本丸南にあったものを、今の場所に移したそうです。 天文18年(1549年)に広忠(家康の父)が殺されると、今川氏が岡崎城を接収します。家康は、1547年6歳(満4歳)の時に今川義元の人質になるはずでしたが、戸田康光の裏切りで織田信秀(信長の父)のもとに送られ織田家の人質となります。その後、今川軍は安祥城(安城市)を攻めて、織田信広(信長の異母兄)を捕らえ、信広と家康を交換、家康は8歳で今川義元の人質となります。そして、永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に討たれると、今川氏の混乱に乗じて岡崎城へ入城します。ここから家康の天下統一への道が開かれるのです。 元亀元年(1570年)、家康は本拠を遠江浜松(静岡県浜松市)に移し、嫡男信康を岡崎城主とします。しかし天正7年(1579年)に織田信長から武田氏に内通したとの嫌疑を受け信康が自刃。その後は、重臣の石川数正、ついで本多重次を城代としました。 天正18年(1590年)に家康が秀吉によって関東に移されると、秀吉の家臣田中吉政が城主となります。吉政は城を拡張し、強固な石垣や城壁などを用いた近世城郭に整備。城下町の整備も積極的に行いました。「岡崎城下二十七曲り」といわれる屈折の多い東海道をつくったのも吉政です。こうして現在の岡崎城の原型がつくられました。 家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名にここを守らせました。江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統)、水野氏、松平(松井)氏、本多氏(忠勝系統)と、家格の高い譜代大名が城主となりました。石高こそ5万石前後と少なかったのですが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと伝えられます。 岡崎城は家康出生の城だけあって、岡崎公園内には家康の様々な時代の像が設置されています。 岡崎城から藤棚(五万石藤)に向かうときに道路に出る右側(竹千代通りの竹千代橋のすぐそば)に「竹千代と小姓の石像」があります。岡崎公園の説明書には「この石像で先を行くのが竹千代である。」と書かれているので、向かって右側が竹千代です。もう1人の小姓が誰かは分かりませんが、山岡荘八の小説「徳川家康」の中の「天野甚右衛門景隆の子の又五郎」「石川安芸の孫の与七郎」「阿部甚五郎の子の徳千代」「平岩金八郎の子の七之助」「松平信定が孫の与一郎」あたりと考えてよさそうです。
「徳川家康公銅像」のすぐ横には「松平元康の騎馬像」があります。 この騎馬像は、「城を背にし、やがて大権現として再生する日光東照宮の方角を向いている」そうです。また、「背景の石垣と滝は治世を象徴し、元康が胸に秘めた国盗りの夢が生誕の地岡崎の土中から盛り上がる様」を示しているそうです。
「三河武士のやかた家康館」の隣には「しかみ像」があります。 説明板には次のように書かれています。
あの「しかみ像」を3次元で見ることができるのです。
そういえば、岡崎城の北、から堀を超えたところに石のベンチがあります。地元産の良質な御影石を使った「天下人家康公 出世ベンチ」です。「竹千代」と「家康公」の2つあり、それぞれ竹千代・家康公の両隣に座ることができます。
さて、いよいよ「徳川家康公銅像」です。この像は「家康公没後350年祭」を記念して制作されました。ちなみに「松平元康の騎馬像」は「家康公生誕450年祭」を記念して制作されたものです。家康は75歳で没したので、約25年ごとに祭が行われているようです。
ところがこれで終わらないのが岡崎公園。公園内の「からくり時計塔」では毎時0分と30分に家康公が能を舞うのです。最後に能面を外すと遺訓を語るという手の込みよう。一見の価値があります。
家康の像だけではありません。 岡崎城の前には、「東照公遺訓碑」「家康公遺言碑」「山岡荘八文学碑」があります。
徳川家康一色ともいえる岡崎公園の中で、からくり時計塔としかみ像の間に「本多平八郎忠勝公」の銅像があります。
本多平八郎といえば、徳川三傑(徳川三人衆)の一人で、徳川家康の功臣として知られています。 ちなみに徳川三傑とは本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人。この3人に酒井忠次を加えた4人が徳川四天王です。で、この銅像の持っている槍が、おそらく本多忠勝愛槍の「蜻蛉切」。刃長43.8cmの笹穂型の大身槍で、戦場で槍を立てていたところに飛んできた蜻蛉が当たって真っ二つに切れて落ちたことから、その名がついたといわれています。この「蜻蛉切」は日本号」「御手杵」と並んで「天下三名槍」の一つに数えられています。 上右の本多平八郎忠勝公銅像の写真に写っている建物が「三河武士のやかた家康館」なのですが、ここに「蜻蛉切」のレプリカが展示されています。また、体験コーナーで「蜻蛉切」の長さと重さを実感することができます。
岡崎城の5階展望台内では手軽に版画(4色)が楽しめます。 「三河武士のやかた家康館」の体験コーナーには兜,刀,槍,火縄銃,籠などがあり、自由にさわったり、身に付けたりして楽しめるようになっているのですが、それ以上のおすすめは「甲冑試着体験室」です。係の方が甲冑(赤備え)をつけてくれます。その後、自由に写真を撮ることができるので、おすすめです。
岡崎公園内ではないのですが、大手門の東には浄瑠璃姫の墓があります。
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