織田信長生誕地(愛知県稲沢市)
織田信長の最期の地が本能寺であることは有名ですが、生誕地はあまり知られていません。信長について語るときに参考にされる「信長公記」にも生誕地については書かれていないのです。 信長の生誕地については長らく那古野城(名古屋城二の丸付近にありました)生誕説が一般的でしたが、最近では勝幡城(現在の愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平和町六輪字城之内のあたりにありました)説が有力になってきているようです。 ウィキペディアの那古野城のページには「1532年、勝幡城の織田信秀が計略により今川氏豊を追放して城を奪い、拠点を置いた。那古野城という城名はこのとき付けられたともいわれる。」とあり、これこそが「1534年生まれの信秀の嫡男、織田信長が那古野城で生まれた」根拠になっています。ところが、織田信秀が那古野城を奪ったのは1532年ではないという研究成果が出てきているのです。たとえば、 京の公家山科言継(やましな ときつぐ)の日記「言継卿記」によると、言継一行は1533年7月に勝幡城に招待されています。もし、1532年に那古野城を奪取していたのならば勝幡城ではなく那古野城に招待されていたのではないだろうかと考えられます。さらに、「言継卿記」には、「那古野の今川竹王丸」が勝幡へ訪れて言継に面会したという記述もあり、1533年7月時点では「勝幡城には信秀」が、「那古野城には今川竹王丸」がいたことがわかります。また、今川竹王丸が元服して今川氏豊になったようですが、これも「言継卿記」によると1533年当時今川竹王丸は12歳。すると元服は1535年以降となり、1532年に織田信秀が「今川氏豊」から那古野城を不可能となります。また、このことから、織田信長の生誕地は勝幡城以外に考えられないといえるのです。 さてその勝幡城ですが、「言継卿記」にはその城の規模とできばえに驚嘆したとの記録を残しているそうで、「尾州古城志」によると、勝幡城は東西48間(87.3m),南北70間(127.3m)の城域をもつ城郭で、東西に二重の堀、さらに外郭を有する当時としては比較的規模の大きな城だったとされています(「勝幡村古城絵図」によると、本丸は東西29間、南北43間、幅3間の方形土塁と記されていうそうです)。 勝幡城址へは名鉄勝幡駅から歩くことになります。勝幡駅から西へ行き、三宅川を渡ったらすぐ右に曲がり三宅川沿いを歩いていきます。日光川沿いを歩いた方が近いと思いますが、こちらは帰り道としましょう。那古良橋西の交差点を左に曲がります。実は勝幡城址の石碑は稲沢市平和町六輪字城之内にあるのですが、愛西市勝幡町内の道路には勝幡城址への案内が道路にかかれており、那古良橋西の交差点付近にもあります。那古良橋西を左に曲がり、まっすぐ歩いていけば左手に「勝幡城址」と書かれた大きな看板が見えてきます。 この勝幡城址碑は高さ2.3m,幅0.82m,厚み0.21mの縄文時代の根府川石で、地域の人たちが愛知県知事松井茂にお願いして1915年に建立されたそうです。 勝幡城址碑を見たらそのまま日光川まで歩きます。そこに架かっている橋が嫁振橋です。右の写真は嫁振橋を西から撮った写真ですので景色は多少変わります。この橋の「嫁振橋」の案内板の下には「勝幡城復元図」が、「「日光川」の案内板の下には「『尾張名所図会』の日光川」が描かれています。 さて、勝幡城址の碑はもう1ヶ所あります。そこに向かうために、日光川の手前(東側)を南(勝幡城址碑から歩いたら左)に向かって日光川沿いに歩きます。200mほど歩くと左に大きな茂みが見えてきます。ここがもう1つの目的地です。ちなみに私が訪れたときは、場所がよく分からず、地元の方に場所を尋ねたところ、「そこの木の陰にあるんですよ。でも、期待しないで下さいね」と教えていただきました。「期待しないで下さいね」の意味はすぐに分かりました。「織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」の石碑と「文化財史跡勝幡城址」の木碑があるのですが、木碑の方は小さい上に朽ちかけているのです。また、石碑の方も、木の陰で、道路からはわかりにくくなっていました。せっかくなので、ぜひ整備し直してほしいですね。
勝幡駅には「織田信秀と土田御前に抱かれた幼少期の信長」像,織田信長のモザイク画「水郷の吉法師」、勝幡城復元模型があります。
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「尾州古城志」 勝幡城復元模型 勝幡城址への案内 勝幡城址碑 勝幡城復元図 この木の茂みに碑があります 「水郷の吉法師」 織田信長像 |