那古野城跡(愛知県名古屋市)
那古野城は、戦国時代に尾張国愛知郡那古野(現愛知県名古屋市中区)にあった城で、今川氏親(今川義元の父)が築城しました。つい最近まで、織田信長生誕の城とされていました。
那古野一帯は、15世紀前半頃から今川氏が治めていました。大永年間に今川氏親が尾張進出の拠点として、現在の名古屋市中心部が広がる熱田台地(名古屋台地)の西北端に「柳之丸」を築城。今川義元の弟・氏豊が入りました。 1538年、織田信秀が氏豊を追放して、本拠を勝幡城(愛知県稲沢・愛西市)から移します。このときの計略が、『名古屋合戦記』に載っているようですが、ここに1532年と書かれているため、1534年生まれの織田信長は、那古野城で生まれたと長く考えられていました。 ところで、このときの計略ですが、残念ながら『名古屋合戦記』は手に入らないため、『尾張志』と『尾張名所図会』で確認したところ、『尾張名所図会』に詳しく書いてあったので、後日紹介したいと思っています。「信秀那古野の城中にに矢狭間を切開図」という図も載っていました。(『尾張志』では『名古屋合戦記』という言葉が何度も出てきます) ちなみに、那古野城という城名は信秀が氏豊を追放して城を奪い、本拠を移したときに付けられたとの説があります。 信秀が古渡城に移り住むと、嫡男の信長が那古野城の城主となり、1555年に一族の織田信友を滅ぼして清須城(愛知県清須市)を奪取するまで本拠としました。 その後、信長の叔父・織田信光や家臣の林秀貞が那古野城主を務め、1582年頃に廃城となったとみられています。 そして1609年に、徳川家康が跡地に名古屋城の築城を決め、世に言う「清須越し(清洲越し)」が行われました。 那古野城の中心部は、古絵図から、愛知県体育館などがある名古屋城二の丸跡付近にあったと考えられています。信秀や信長が住んだ中心部の建物跡や堀は見つかっていないそうですが、三の丸跡での発掘調査では、家臣たちの館を囲んだと考えられる幅約5メートル、深さ約3メートルの堀跡が複数見つかっているそうです。 |