蜂須賀については、美和歴史民俗資料館が編集・発行している「あま市美和・甚目寺歴史民俗資料館だより ニュースレター」第5号に載っているものを紹介しましょう。
尾州海東郡蜂須賀村由来記という本
蜂須賀地区を語る上で外すことのできない書物に『蜂須賀村由来記』がある。同地区の旧家に伝わっており、同書の最後に「寛政6年(1794)申二月うつし置き」と江戸時代に書き写された墨書が残る。ただ原本の存在は分かっておらず、また作者も不明である。内容は「いにしえより古記録にまかせ、これまで伝えたることのみ書き記す。末世の人々、この書を読みて当所の訳合いを心得るべき…」とあり、地域の由来、言い伝えを書き写したものとわかる。ここでは当地の地名に関すること、蜂須賀家の記述部分のみ抜粋し紹介する。
A) 地名「蜂須賀」の由緒
弘法大師(空海)がこの地を訪ねると蜂蟻に頭を悩ませる村人に出会う、それを不憫に思った大師は、加持をもって蜂蟻の塚を築き、悪い虫を封じ込めた。ゆえにこの地が蜂塚と呼ばれ、いつしか蜂須賀になったとある。大師に関わる霊地なれば人軒をならべ大いに繁盛した。
B) 地名「菅安」と老人
地名「菅安」は白山妙理大権現の御宮地で弘法大師がこの地を訪ねたさい、ここには人家も無く飄々たる野原なれば一夜の宿りも無困っていた。そこへ白髪の老人が来て大師に「先だってよりあなたが来るのを待っていました。ここは並びなき霊地で衆生有縁の土地なれば、ここに一宇を建て仏法を広め給うべし…」、大師は喜び一宇を建立した。これが蓮華寺なり。されば白山の御宮は蓮華寺の戌亥(北西)にあたり「菅安」と申し、今にいたる。
C) 正勝の舎弟
正勝の弟である平左衛門勝秀は、虚弱病身にして阿州(徳島)へ移住できず、やむを得ずこの地にとどまり、正勝の古殿屋敷に住居いたし、阿州より扶持をもらい安楽に暮らす。病気も快方し長命を保ち慶安4年(1651)に亡くなる。
D) 正勝と地蔵
いにしえここに(蓮華寺の東側)延命地蔵菩薩があった。開運地蔵といわれ、霊験あらかた貴賤男女を問わず参詣の群集で市をなせり。蜂須賀正勝もこの地蔵を夜毎参詣し、一国の主となるべき願いをかけ、見事に成就。後世、この地蔵の錫杖を槍先の印とし、御道中には必ず阿波守様(藩主)の乗り物の前を歩いた。この地蔵はその後中橋の法蔵寺へ安置され奉られる。 |
なおこの文章には「今の私たちが伝え聞く話しと異なってはいるが、あくまでも江戸時代の当地域に伝承された話しとして紹介した。」という但し書きがついています。
さて、愛知県あま市蜂須賀大寺1352に蓮華寺があります。
蓮華寺山門 |
蓮華寺 |
この蓮華寺の案内板には次のように書かれています。
蓮 華 寺
町で最古の歴史を持ち、蜂須賀の弘法さんと親しまれ、今から1200年程前に弘法大師によって開かれたと伝えられています。
多彩な文化財と豊かな自然環境が整っており、約3町歩の境内を有した、当町最大の寺院です。境内地には、直接ご覧いただくことはできませんが、天然記念物榧(かや)の木、県名勝の庭園があります。また、ここの寺叢は、尾張西部に残る唯一の大規模自然林として、昭和50年県の自然環境保全地域第一号に指定されており、生きた自然の博物館を形成しています。特別指定地域の中心に蜂須賀山(11.8メートル)があり、山頂に二等三角点が設置されています。
また、戦国時代に活躍した蜂須賀小六公の菩提寺でもあり、蜂須賀小六・家政公のご位牌をはじめ、貴重な文化財を多数蔵し、
木造仏頭(萩原期作)
法華経 紫紙鎌倉版 八巻(室町期作)
金剛界及び胎蔵界曼荼羅(鎌倉期作)
など、県指定文化財となっています。
また、南西へ100メートル程の所に、蜂須賀小六正勝公の旧邸宅跡があります。蜂須賀村では明治20年、正勝公没後300年、家政公没後250年を期に郷土の英雄を顕彰する動きが高まり、昭和2年、地元の運動が実を結び顕彰碑が建てられる運びとなりました。南西には堀をめぐらせ1ヘクタールにも及んだという蜂須賀城があったと伝えられています。 |
蓮花寺本堂の横、「四國八十八ヶ所霊場」を通りに抜けたところに蜂須賀山があります。この山、どうみても古墳としか思えないのは私だけでしょうか。蜂須賀地区に人が住み始めたのは弥生時代と思われ、地区内には弥生~古墳時代の遺跡が各所に点在しています。古墳があってもおかしくないと思うのですが・・・。
この蜂須賀山の中腹には蜂須賀小六正勝公・蜂須賀家政公の合葬墓碑があります。
(話はそれますが、郷土史研究家藤川清は豊臣秀吉の父は木下弥右衛門ではなく蓮華寺十二世珪秀であるとの説をずいぶん前に発表しているようです)
最初に紹介した「ニュースレター」第5号には蜂須賀小六正勝公顕彰碑についても書かれています。
蜂須賀小六正勝公顕彰会
蓮華寺の山門手前にある巨大な同公顕彰碑、現在もその命日である5月22日には、碑前にて同公の法要が執り行われる。この碑は昭和2年(1947)に建立、除幕式当日は蜂須賀茂韶・正氏父子の臨席(→画像)のもと盛大に執り行われた様子が伝わっている。ときの内閣総理大臣からも祝電が寄せられるなど、多数の名士が来村したとも。そして何よりこの碑の建立とともに、地元が中心となって「蜂須賀正勝史跡保存会」が発足、いまも顕彰碑の右斜め前にその証である石碑が建つ。保存会総裁には当時の愛知県知事で顕彰碑文(顕彰碑裏面)を綴った小幡豊治が担当した。この時代、小六といえばまだまだ「夜盗」というイメージが拭いきれなかったが、同公をわが村の偉人として顕彰する思いを持ち続けた地域の熱意は相当なものであった。しかし太平洋戦争の激化により会は自然消滅し、昭和46年(1971)再びその顕彰機運が高まり、地元の強い熱望により「正勝公顕彰会」が発足され今に至る。 |
この蜂須賀小六正勝公顕彰碑の案内板には
蜂須賀小六正勝公顕彰碑
明治期、郷土の戦国武将蜂須賀正勝公を顕彰する気運が当地で高まり、昭和2年(1927)、顕彰会の手によって蓮華寺山門手前に「蜂須賀小六正勝公顕彰碑」が建立された。碑文の書き出しは「時は人を作り人また時を作る・・・・」の名調子で始まり、公が信長に仕官したこと、墨俣一夜城の功績、秀吉の配下となり、龍野城主になったこと、秀吉の出世には公の働きがあり、何より領民から慕われていたことが記されている。11月6日に執り行われた碑の除幕式には、蜂須賀茂韶・正氏父子臨席のもと、盛大に挙行された。 |
とあり、これはぜひとも碑文を読んでみなければと思い、顕彰碑の裏面を見に行ったのですが、全く読めません。写真に撮って拡大してみましたが、文字が写っていないのです。
そこで、「美和歴史民俗資料館」に行って、「蜂須賀小六正勝公顕彰碑の碑文が読めないのですが、碑文が載っている資料はありませんか」と尋ねたところ、「あるのでコピーをとっておきます。帰りにもう1度寄って下さい。」と快く返事をいただくことができました(最初の紹介した「ニュースレター」第5号もこのときにいただいたものです)。
その碑文は次の通りです。
時は人を作り人また時を作る。應仁以来元亀天正の間に起れる群雄中ここに蜂須賀正勝あり幼名を鶴松と呼び,小六を通称とし足利高経より出でて七代の蔵人正利を父とす。四男二女の長子に生れて資生の英邁智略は夙に郷党推戴の衆望を負い織田信長に招かれて,屡々戦功あり五百貫の禄を輿へられ名を彦右衛門尉と更む。信長の旗を京師に樹こむとする。発祥の第一歩は美濃の洲股城を以て最も難事とせしが,羽柴秀吉これに富り正勝その功を完ふせしむ,爾来秀吉の麾下に属して肝胆相照し形影相伴い戦国乱離の波瀾曲折に応じて,苟くも秀吉の動くところ正勝のあらざるなく,秀吉の中国探題として姫路に居城せし時,正勝また龍野城主として五万三千石を輿へらる。偶々信長の兇変は天下の形勢を一変して秀吉の大をなすに従つひ正勝ますます帷幄の謀将となり戦陣の雄将となり加えて内外の功に誇らざる恬淡の性格いよいよ重く用いられ深く許され天正13年阿波の国に封ぜられし時,これに荅て日く,我は既に老いたり願くば,大阪にありて多年知遇の下に終らむ若し微功の録すべきものあらば一子家政に賜はるべしと,秀吉その性を知りて強ひず家政に阿波を輿へ正勝のため別に丹波河内の良田より五万五千石を以て朝夕の料とす翌14年に病みて再び起つべからざるを知るや其五万五千石を尽く秀吉に返還し左右の侍臣を悉く阿波に移らしめて5月22日に逝く大永六年に生れて,享年61才従四下に除せられ修理亮を贈られ法號を福聚院殿良岩浄張とし櫓岸の安住寺に葬る。時と人と相得て,我国の歴史上に千古不滅の一大足跡を印せし豊太閤の出処進退には此名利に淡々たる英雄漢の正勝あることを知らざるべからず,正勝また攻守の雄たるのみならず,旗鼓の智たるのみならず更に秀吉の感歎せしめたるものは我に薄く,他に厚く到るところ治民に意を注ぎ産業に心を用い,善く衆力を導きて領土を富ましむるにあり,これがため歳月の長短あるも正勝の輿へられし封土は,民その餘澤を蒙りて轉封を惜み遺徳を慕ふ就中阿波藍の国産を以って阿波商人の名声を以て,世に鳴りしは,幡磨藍を移植せしものにして幡磨の龍野に城主たりし時,既に己の兵馬の傍ら藍の民生に利あるを看取し,家政の阿波に入るや吉野川両岸の平野地味これに適せるを応用して三百年富国の基を開きしは大に故ありといふべく,阿波の塩田また由来するところ,屍山血河の間を馳驅せし人の群を抜て後世に伝へしもの,歴代藩主その遺業に保護奨励を加へし殖産興業の功績は決して,一朝一夕の偶然にあらず,正勝また常に深く仏法を奉ぜしは,祖父に正昭の前身たる龍空禅師あり,弟に高野山の常林禅門ありといふよりも寧ろ其,本来心にありて諸処に因縁の浅からざる寺院を残せり,初め濱を姓とせしが,蜂須賀村に生れたるを以て氏とし子孫また累世これを襲う,夫人は益氏一男二女あり,男は即ち家政にして世に阿波の蓬庵公と称せらる。昭和2年は正勝の冥目を去ること341年茲に聖代の今日その家は侯爵を賜ふ。
愛知県知事正四位勲三等 小幡 豊治 撰
正三位勲三等男爵 杉湲 言長 書 |
ちなみに、地元美和郵便局の風景印はこの蜂須賀小六正勝公碑です。
蜂須賀小六正勝公碑の右斜め前(蜂須賀小六正勝公碑に向かって左手前)にある、蜂須賀正勝公遺跡保存会」の記念碑の碑文は読み取ることができたので、それも紹介します。
郷土の誇りは偉人の出生にあり小六正勝の蜂須賀村に出でしは世に知られたるも今日まで遺跡の見るべきものなく茲に舉村一致の遺憾を以て建碑と共に其の遺跡保存會を起し我々子孫をして永く追慕の念に奮起の志を併せ偉人の出生地また後の偉人あらむ事を希ふ舊考によれば蓮華寺乃傍ら公の居住たり千年の巨利と四百年の傑物と相待て益々その意義を深からしむ
昭和二年十一月 蜂須賀正勝公遺跡保存會 |
この蓮華寺の入り口を西に向かって歩き、突き当たりを左に曲がって歩いていくと、圓龍院という寺があります。その寺の角に「蜂須賀小六正勝公舊宅趾」の碑があります。
このあたりが蜂須賀小六正勝公の生誕地と考えてよいのでしょう。
生誕地巡りに戻るのはこちらです。
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蓮華寺は弘法大師によって
開かれた
蜂須賀城趾
蓮華寺案内看板より
蜂須賀山山頂二等三角点
蜂須賀小六正勝・家政合葬墓碑
蜂須賀小六正勝公顕彰碑除幕式
「ニュースレター」第5号より
蜂須賀小六正勝公碑
美和郵便局風景印
蜂須賀正勝公遺跡保存会記念碑
蜂須賀小六正勝公舊宅趾
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