姫路城(兵庫県姫路市)
黒田長政は、永禄11年(1568年)12月3日に、黒田官兵衛孝高と正室・櫛橋光の嫡男として姫路城で生まれました。幼名を松寿丸といいます。 今の姫路城は池田輝政が築いたもので、黒田官兵衛孝高の頃の城は、屋敷みたいなものでした。 姫路城百間廊下に「黒田官兵衛孝高の姫路城」と「羽柴秀吉が築いた姫路城三重天守」と「池田輝政が築いた姫路城の大天守」の比較展示がありましたので、右に写真を載せておきます。ただし、この模型は、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の中で、実際に使われた撮影セットを縮小再現して製作されたもので、「当時の姫路城を復元したものではありません」との注意書きがありました。 松寿丸は、天正5年(1577年)に人質として秀吉に預けられ、長浜城で過ごすことになります。 天正6年(1578年)、摂津有岡城主荒木村重は織田信長に反旗を翻します(有岡城の戦い)。 官兵衛は、懇意であった村重を翻意させるために有岡城へ乗り込み説得に当たりましたが失敗し、石牢に幽閉されてしまいます。 主君であった織田信長は、官兵衛も寝返ったと思い込み、人質にしていた官兵衛の嫡男である松寿丸を殺すように豊臣秀吉に命じました。 官兵衛の親友である竹中半兵衛重治は、官兵衛に二心はないと信じて、松寿丸の身柄を密かに居城・菩提山城城下に引き取って家臣・不破矢足(喜多村直吉)の邸(現在の五明稲荷神社)にかくまい、信長には処刑したと虚偽の報告をしました。 その後、有岡城から官兵衛が助け出されると、松寿丸も許されました。信長はこのとき、松寿丸の処刑を命じたことを悔やみ、松寿丸が生きていたことを知らされて安堵したと伝わっています。 この出来事から、私は、五明稲荷神社が黒田長政のもう1つの生誕地であると勝手に思っています。 五明稲荷神社には、松寿丸がここ(岩手)を去るときに植えたと伝えられている銀杏の木があります。
「松寿丸お手植えの銀杏の木」は、右上の写真の鳥居の向こう側に見えていますが、右側が切り取られています。 菁莪記念館には、切除された銀杏の切り株の輪切りが展示されています。 五明稲荷神社の北には、不破矢足の墓があります。 <追記> 季節を変えて五明稲荷神社に行ってきました。 松寿丸お手植えの銀杏の木は青々としてみごとでした。 また、切り取られた方の銀杏の新しい枝もずいぶん育ってきていました。 |
黒田官兵衛孝高の姫路城 (姫路城百間廊下内展示) 五明稲荷神社 (岐阜県不破郡垂井町) 「五明稲荷神社のイチョウの木」 「松寿丸お手植えの銀杏の木」 不破矢足の墓 五明稲荷神社 |