佐々成政
 

佐々成政生誕地(名古屋市西区比良)

 佐々成政は、尾張国春日井郡比良城(現在の名古屋市西区比良)に拠点を置く土豪・佐々成宗の三男として誕生しました。
 佐々成宗の長男佐々政次と次男佐々孫介は、天文11年(1542年)におきた「小豆坂の合戦」で限りない手柄を立て(「信長公記」に「手柄と云ふ事限りなし」とあります)、「小豆坂七本槍」(甫庵信長記)にも数えられる勇将でしたが、孫介は弘治2年(1556年)の「稲生の戦い」で柴田勝家の軍に敗れ討死。政次は永禄3年(1560年)、「桶狭間の戦い」の序盤に、織田信長が善照寺に到着したのを見て、千秋四郎と共に兵三百ほどを率いて今川義元軍に攻撃をかけ討死します。
 勇将で名を馳せた2人の兄の相次ぐ死により、成政は永禄3年(1560年)に家督を継ぎ、比良城主となりました。

 比良城のあった場所には現在「光通寺」が立っており、本堂の西隣りの墓地に「佐々成政城址」の石碑と「佐々成政の墓」(平成14年5月に建てられたようです)があります。

 この寺にある比良城跡の案内板には次のように記されています。

              比 良 城 跡
 比良城は、天文年間(1532~1555)に佐々成政の父成宗が築いたもので、東西68メートル、南北72メートル、二重堀が周りを囲んでいたといわれる。北は庄内川を臨み、清洲城を守る重要な城であったが、天正3年(1575)廃城となった。
 成政は織田信長の家臣で、朝倉攻め、長篠の戦などの功により越前(福井県)小丸の城主となり、その後、越中(富山県)に移った。天正15年(1587)肥後(熊本県)の領主となった。


 光通寺から700mほど南に行ったところに「蛇池(じゃいけ)」と呼ばれる池があります。
 「信長公記」には「蛇かえの事」としてこの池での出来事が記されています。


 ところで、不思議なことがあった。
 尾張の中央清洲から五十町(約5.5㎞)東、佐々成政の居城である比良の城の東に、南北に長い大きな堤がある。その西側に、あまが池という、恐ろしい大蛇がいると言い伝えられている池がある。堤の外、東側は、三十町も平坦な芦原が続いている。
 ある年の一月中旬、安食村(あじきむら)福徳の郷の又左衛門という者が、雨の降る夕方、堤を通りかかったところ、太さ一抱えほどもありそうな黒い物を見た。胴体は堤の上にあって、首は堤から伸びて来て、もう少しであまが池に達するところであった。人の足音を聞いて、首を上げた。顔は鹿のようであった。眼は星のように光り輝く。舌を出したのを見ると真っ赤で、人間の手のひらを開いたようだった。眼と舌とが光っている。これを見て又左衛門は身の毛がよだち、恐ろしさのあまり、もと来た方へ逃げだした。
 比良から大野木へ来て、宿に帰りつき、このことを人々に話したので、噂は広まった。いつしか信長の耳にも達した。
 一月下旬、信長は例の又左衛門を召し出して事情を直接聞きただし、「明日、蛇替え(じゃがえ:蛇を捕らえるため池の水を掻い出す作業)をする」と触れを出した。比良の郷・大野木村・高田五郷・安食村・味鏡村(あじまむら)の農民たちに、水替え桶・鋤・鍬を持って集まれ、と命じた。
 当日、数百の桶を立て並べ、あまが池の四方から取りかかり、二時(4時間)ほど水替えをさせたところ、池の水は七割がたに減った。しかしそれ以後は、いくら掻い出しても同じことであらた。
 そこで信長は、「水中に入って大蛇を探そう」と言い出した。脇差を口にくわえ、しばらく池に入っていたが、やがて上がってきた。大蛇らしいものはいなかった。鵜左衛門という水によく慣れた者に「もう一度入ってみよ」と命じ、自分のあとへ入れて探させたが、どうにも大蛇は見つからなかった。それで結局、信長はそこから清洲へ帰ったのであった。
                       「現代語訳 信長公記」より

 「信長公記」によると、この蛇替えのときに佐々成政による織田信長暗殺計画があったとされています。

  実は、身の冷えるような危険なことがあったのである。
 というのは、その頃、佐々成政が信長に逆心を抱いているとの風説があった。それでこの時は、成政は起き上がれないほどの重病と偽って、出て行かなかったのだが、「きっと信長は、小城にしてはこの城ほど良い城はないと聞き知っているだろうから、蛇替えのついでに成政の城を見ようなどと言って、この城へ来て、私に詰め腹を切らせるのではないか」と心配した。
 成政の一族で、家臣の長老に井口太郎左衛門という者がいた。「そのことについてなら、私にお任せください。信長公を討ち果たしましょう。というのは、城を見たいというのであれば、この井口に申しつけられるでしょう。そうしたら私は、ここに舟がございますから、お乗りになって、まず城のかけりを御覧になるのが良いでしょう、と言いましょう。信長公がもっともだと言って舟に乗られたら、私は衣服を腰高にはしょり、脇差を投げ出して小者に渡し、舟を漕ぎ出します。多分、信長公のお供にはお小姓衆だけが乗るでしょうが、たとえ五人なり三人なりのお年寄衆が乗ったとしても、私は懐中に小脇差を隠しおき、好機を見て信長公に飛びかかり、何度も突き刺して突き殺し、組み付いたまま川へ飛び込みますから、御安心ください」と申し合わせたのだそうである。
 信長は運の強い人で、あまが池からどこにも立ち寄らずに帰ったのであった。総じて一城の主ともある人は、万事に注意して、油断をしてはならないということなのである。
                       「現代語訳 信長公記」より

 「佐々成政が信長に逆心を抱いている」といううわさは信長の耳にも届いていたのでしょうか。届いていたから比良城に立ち寄らなかったのか、届いていなかったから佐々成政は何のお咎めも無かったのか。
 ドラマにもなりそうな内容なのですが、あまり聞いたことがないですね。


 生誕地巡りに戻るのはこちらです。

「佐々成政城址」碑



光通寺



光通寺



蛇池



蛇池



蛇池神社



蛇池神社奥の院