岡崎城(愛知県岡崎市)
徳川家康は天文11年(1542年)12月26日に岡崎城で生まれました(「徳川家康公銅像」の案内板によると、二の丸で生まれました。二の丸は現在岡崎公園内にある能楽堂のあたりになります)。 岡崎城がある岡崎公園内(岡崎城の西)には、「東照公産湯の井戸」と「東照公えな塚」があります。
岡崎城内で生まれた竹千代(徳川家康)の産湯にこの「東照公産湯の井戸」の水が用いられました。こういう井戸は得てして涸れているものですが、現在でもこの井戸の水を汲み上げて、浄水設備を通したあと触れることができるようにこの井戸のすく隣で常時流れています。 「えな」というのは「へその緒・胎盤」のことです。徳川家康の「えな」を埋めたと伝えられる塚がこの「東照公えな塚」。古来、日本では「えな」を埋めて子供の成長を願ったといわれています。もとは本丸南にあったものを、今の場所に移したそうです。 徳川家康の幼名は竹千代。 弘治元年(1555年)年元服し次郎三郎元信と名乗り、永禄元年(1558年)頃元康と改名しています(「元」は今川義元からの偏諱)。 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に討たれた後、今川氏の混乱に乗じて岡崎城へ入城すると今川氏と決別して永禄5年(1562年)に織田信長と同盟を組みます(清洲同盟)。そして翌永禄6年(1563年)、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康に改めました。 永禄9年(1566年)には朝廷から従五位下三河守に叙任され、松平から徳川に改姓しました。 岡崎公園には家康の様々な時代の像が設置されています。 岡崎城から藤棚(五万石藤)に向かうときに道路に出る右側(竹千代通りの竹千代橋のすぐそば)に「竹千代と小姓の石像」があります。岡崎公園の説明書には「この石像で先を行くのが竹千代である。」と書かれているので、向かって右側が竹千代です。もう1人の小姓が誰かは分かりませんが、山岡荘八の小説「徳川家康」の中の「天野甚右衛門景隆の子の又五郎」「石川安芸の孫の与七郎」「阿部甚五郎の子の徳千代」「平岩金八郎の子の七之助」「松平信定が孫の与一郎」あたりと考えてよさそうです。
「徳川家康公銅像」のすぐ横には「松平元康の騎馬像」があります。 この騎馬像は、「城を背にし、やがて大権現として再生する日光東照宮の方角を向いている」そうです。また、「背景の石垣と滝は治世を象徴し、元康が胸に秘めた国盗りの夢が生誕の地岡崎の土中から盛り上がる様」を示しているそうです。
「三河武士のやかた家康館」の隣には「しかみ像」があります。 説明板には次のように書かれています。
あの「しかみ像」を3次元で見ることができるのです。
そういえば、岡崎城の北、から堀を超えたところに石のベンチがあります。地元産の良質な御影石を使った「天下人家康公 出世ベンチ」です。「竹千代」と「家康公」の2つあり、それぞれ竹千代・家康公の両隣に座ることができます。
さて、いよいよ「徳川家康公銅像」です。この像は「家康公没後350年祭」を記念して制作されました。ちなみに「松平元康の騎馬像」は「家康公生誕450年祭」を記念して制作されたものです。家康は75歳で没したので、約25年ごとに祭が行われているようです。
ところがこれで終わらないのが岡崎公園。公園内の「からくり時計塔」では毎時0分と30分に家康公が能を舞うのです。最後に能面を外すと遺訓を語るという手の込みよう。一見の価値があります。
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