「日吉丸となかまたち」(名古屋市中村区中村公園内)
豊臣秀吉の生誕地には3つの候補があります。織田信長にも勝幡城と那古野城の2つの説が、前田利家にも荒子城と前田城の2つの説がありますが、豊臣秀吉の場合にはそれとは様子が異なります。秀吉の出自に関して明確なことは分かっていないのです。それどころか、本当の父親が誰かすらわかっていないのです。そのため、このページの最初の写真を何にするか悩みましたが、中村公園内にある「日吉丸となかまたち」の像にしました。これは日吉丸(豊臣秀吉)を中心とした5人の子供たちの群像で、秀吉のわんぱく盛りのころをモデルにして昭和58年(1983年)に設置されました。 「太閤素性記」によると、秀吉は尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)で、足軽と伝えられる木下弥右衛門・なか(のちの大政所)の子として生まれたことになっています。変わったところでは、秀吉の父親は木下弥右衛門ではなく蓮華寺十二世珪秀であるとの説(藤川清説)もあります。生後の秀吉については広く流布している説では、父・木下弥右衛門の死後、母・なかは筑阿弥(竹阿弥とも)と再婚しますが、秀吉は筑阿弥と折り合い悪く、いつも虐待されており、天文19年(1550年)に家を出て、侍になるために遠江国に行ったとされています。 それではまず第1の候補、常泉寺から紹介しましょう。 常泉寺は慶長11年(1606年)に、加藤清正が一族の圓住院・日誦上人とともに秀吉をまつるために創建したと伝えられています。この地は筑阿弥の宅址といわれ、そのため秀吉生誕の地であるといわれています。
秀吉の両親について常泉寺では、秀吉の母なか(天瑞院・大政所)は藤原保通の娘であるとしています。なかは後奈良天皇に寵愛され懐妊、しかし宮中でこれを妬み危害を受ける恐れがあるために、名古屋に逃れ筑阿弥の宅に寄居し、秀吉を生みます。そう、常泉寺では、御落胤説なのです。そしてなかは後に筑阿弥の妻となり秀長と二女を儲けます。また、筑阿弥の名は昌吉で、始め織田信長に仕えて後に、剃髪し出家します。筑阿弥はその法名としています。 常泉寺の山号は太閤山。境内には「豊臣秀吉の像」「秀吉産湯の井戸」「秀吉御手植の柊」があります。 「秀吉産湯の井戸」の案内板には「此の井戸は秀吉公生誕の当時近郷に類のない清水の溢れる井戸と伝えられております。此処に秀吉の依頼によって寺を建立した時この清泉の湧出を意味として常泉寺の寺号を定めたと当山の縁起書に記されております。昭和40年代に入り市の発展にともない地下水の変動で常泉も涸れるに至り多くの人々が元の姿にもどすことを希っておりました。年号改元を機に常泉寺の名のとおりの再現を試み清泉がよみがえりました。滝の落下する後の石は千成びょうたんにちなんで「萬成石」が使用してあります。」と書かれています。 また「秀吉御手植の柊」の案内板には「秀吉は(1590年)小田原攻め凱陣の時、此の地に立寄りて一宿なさる。小早川隆景・加藤清正を呼召され、寺の建立ありたしと見れば、私11才の時植え置いた柊(1547年)が繁茂せり、柊は鬼神も恐れる吉祥の樹なり大切に致べしとして、手づから竹を立添えられる。以来「幹」が衰えても下枝が育ちを繰り返しながら現在に至る」と書かれています。現在の柊が基木より5代目だそうです。ちなみに、この柊については、小田原攻め凱陣の時に秀吉が近くにあった柊の枝を折って逆さに立て「この枝が根付いたら、今度の戦いは勝ちだ」と言ったという「逆さ柊」の伝説もあるそうです。 寺の南と西にある碑は中村公園内にある「豊公誕生之地碑」に対する対抗心が感じられます。
第2の候補地は中村公園内。 豊國神社の東に「豊公誕生之地」碑があります。一般的に豊臣秀吉生誕地といえばここを思い浮かべる人が多いでしょう。 中村公園の歴史です。 明治16年(1883年)、木村喜代二・鈴木弥平・木村伊兵衛・山森茂寿十の4人が発起人となって、愛知県県令国貞廉平に申し入れ、「豊公遺跡保存会」を設立します。 同じ明治16年(1883年)3月25日、4人の案内で豊臣秀吉ゆかりの旧跡を訪ねた国貞廉平は、この地を保存するため自筆で「豊公誕生之地」と記した木製の標柱を建てます。 明治18年(1885年)8月、その標柱の西側に豊國神社が創建されます。 明治33年(1900年)には「中村旧跡保存会」が設立され、豊臣秀吉誕生の遺跡を中心に土地を買い入れ、豊國神社の境内と併せて管理します。 中村旧跡保存会は本事業が県の管理によるのが適当であると考え、明治34年(1901年)に愛知県の所管となり、「中村公園」が設置されます。 明治44年(1911年)3月に深野一美知事筆の「豊公誕生之地」石碑が建てられます。 大正10年、中村区が名古屋市に編入されたのを記念して大鳥居建設が計画され、昭和4年6月17日に起工、竣工は同年11月3日で翌昭和5年の元旦に竣工式を執り行いました。この大鳥居は鉄筋コンクリート製で、全長約24.5m、柱直径2.5mもあり、名古屋の名物の1つになっています。 と、ここまで読んで気が付いたでしょうか。実は、豊臣秀吉と中村公園のつながりは、「地元有志のおもい」なのです。 明治16年の記念碑建立の時に、神仏判然令のためにあえて常泉寺から離れた中村公園内に建てられたという話もあるそうです。
第3の候補地は弥助屋敷跡といわれている場所です。 最近では、ここが本当の生誕地ではないかとという説が増えてきているような気がします。 このページの最初に、秀吉は尾張国愛知郡中村郷中中村で、足軽と伝えられる木下弥右衛門・なかの子として生まれたと書きましたが、常泉寺も中村公園も旧上中村。旧中中村にあるのが弥助屋敷跡なのです。 場所は名古屋市中村区中村中町2-●●だといわれていますが、現在宅地整備化されていて当時の面影も記念の碑もありません。「秀吉清正記念館で配布されている「中村公園歴史マップ」には「弥助屋敷跡」が載っているので、記念館の方に場所を訪ねたところ、自分も行ったことがないからよく分からない、ということでした。 ということで、有力な候補地ではあるのですが、写真はありません。 ところで、秀吉の生誕に関してはもう1つ紹介したい事柄があります。それは秀吉の母・なか(天瑞院・大政所)が男子出生を願ったと伝えられている神社です。この神社も2つの説があります。 1つめは中村公園の南南東1.5kmにある日吉公園内にある日之宮神社です。近くの下中八幡宮の境外社で小さな祠だけの小さな神社ですが、かつては「日吉権現」といわれていたそうで、秀吉の母なか(天瑞院・大政所)が、男子が授かるよう日参した社と伝えられているそうです。
鳥居の横には名古屋市教育委員会による「日吉丸生母祈願の跡」の案内板が、神社の東には、石碑が建てられており、石碑には次のように書かれています。
もう1つは、愛知県清須市清洲 2272番地にある清洲山王宮日吉神社です。神社の入り口に掲げられている由緒書きには「宝亀2年(771年)、当地疫病流行のおり、素盞鳴命、大己貴命二神を祀り、止むと云う。織田氏清洲在城時は城下総鎮守と崇敬し、天正8年近江坂本より山王二十一社を勧請した。織田、豊臣、徳川各氏の奉納事蹟多数有り。日吉丸(豊臣秀吉幼名)は母が当神社に祈願し、授けられたと伝える。」とあります。
日吉神社では、秀吉の母なか(天瑞院・大政所)は清須市朝日の生まれであるとしています。実は、秀吉の妻ねね(高台院・北政所)も清須市朝日で生まれたといわれています。ねねの母が「朝日」といわれているのと関係があるのかもしれません。清洲城に近いこともあり、「住んでいた」のかもしれません。 日吉神社には「子産石(こうみいし)」という女陰石があります。案内板には「この石は古来より『子産石』と称される女陰石で、女性がこの石に触れると立ちどころに懐妊すると伝えられています。また豊臣秀吉は生母(大政所)がこの石に触れ授かったという伝えも残っております。今は、子授かり・安産・夫婦和合の石として奉られています。」と書かれています。
秀吉は、母なか(天瑞院・大政所)が日吉神社で子産石に触れ、男子が授かるように祈願し授けれれた子であり、それゆえ幼名を日吉丸ということなのです。 ちなみにこの日吉神社の神様は申です。 上の写真では小さくてわかりにくいので、右に載せておきましたが、拝殿前に配置されているのは狛犬ではありません。猿なのです。 しかも御幣を持ち、烏帽子をかぶり正装しています。また、狛犬と同様阿吽の申になっています。 そのほか、屋根の上にも御幣を持った申たちがいます。境内には全部で24体の申の像があるそうです。 そんな日吉神社で祈願して生まれた秀吉だから、.身のこなしが日吉神社の神の使いである猿に似ていたと伝えられているそうです。そして秀吉のあだ名である「猿」とつながるのでしょうか。 生誕地巡りに戻るのはこちらです。 |
常泉寺南、山門前に至る道の 入り口に立つ「豊太閤御誕地」碑 常泉寺西の入り口の外にある 「豊公御誕生井御手植柊」碑 よく見ると「太閤山」の文字の上 には指さす手が彫られています 豊太閤産湯の井戸 現在の柊は基木から5代目という 中村公園の周辺の道路には秀吉の 「馬藺後立兜(ばりんうしろだてかぶと)」の絵がたくさんあります 中村郵便局の風景印 中村公園大鳥居豊公生誕之地碑 ・千成びょうたん 明治43年頃の中村公園入口 (まち歩きカード6) 現在の中村公園入口 明治43年頃の豊國神社 (まち歩きカード7) 中村公園歴史マップ 日吉公園 下中八幡宮 下中八幡宮 日吉神社 御朱印 日吉神社 由緒 神申像 神申像 屋根の上の申 |