邇邇芸命

天津彦々火瓊々杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)・大鉗(オオクハ)・小鉗(オクハ)像
天津彦々火瓊々杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)・大鉗(オオクハ)・小鉗(オクハ)像
(宮崎県西臼杵郡高千穂町国見ヶ丘)


 天照大御神の命令を受けた建御雷神と天鳥船神が稲佐の浜(島根県出雲市大社町)で大国主神から国譲りを受けて葦原中国の統治権を確保したあと、葦原中国を統治するために高天原から地上に降りてきたのが天津彦々火瓊々杵尊(ニニギノミコト,邇邇芸命,『古事記』では天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命,天邇岐志,国邇岐志,天日高日子,『日本書紀』では天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊,天津日高彦瓊瓊杵尊,彦火瓊瓊杵,火瓊瓊杵)です。

 天津彦々火瓊々杵尊が降りてきた(このことを「天孫降臨」といいます)ときの様子が、日向風土記に書かれており、仁和寺本「万葉集註釈」にその逸文が残されています。

         『日向風土記逸文』

 日向の風土記に曰はく 臼杵の郡の内 知鋪の郷 
 天津彦々火瓊々杵尊 天の磐座を離れ
 天の八重雲を排けて 稜威の道別き道別きて
 日向の高千穂の二上の峯に天降りましき
 時に天暗冥く晝夜別かず 人物道を失ひ
 物の色別き難かりき ここに土蜘蛛あり
 名を大鉗小鉗と曰ふ二人ありて奏言しけらく
 「皇孫の尊 尊の御手を以ちて 稲千穂を抜きて 
 籾となし 四方に投げ散らしたまはば必ず
 開晴りなむ」とまおしき 時に大鉗等の奏ししが 
 如く千穂の稲を搓みて籾と為して
 投げ散らしたまひければ 即ち 天開晴り
 日月照り光きき 因りて高千穂の二上の峯と 
 曰ひき 後の人 改めて知鋪と號く

 この日向風土記逸文をモチーフにして作られたのが、最初の写真の「天津彦々火瓊々杵尊・大鉗・小鉗像」です。

 私がまだ国見ヶ丘に行ったことがないときに、この像について高千穂町企画観光課地域振興係に問い合わせたところ、

 国見ヶ丘にある像は、ニニギノミコト像です。
 両脇は像に向かって右がオオクワ、左がオクワです。
 ニニギノミコトが降臨した際、霧が深く夜や昼の区別がつかず迷っていると、オオクワとオクワが現れて「ミコトが持っている稲千穂を籾にしてあたり一面にまかれると霧は必ず晴れるでしょう」といい、ニニギノミコトは言うとおりにするとたちまち霧が晴れ、無事地上界に降りることができたという神話をモチーフにしたものです。

との丁寧な回答をいただきました。

 ということで、下で跪いている2人のうち、向かって右が大鉗像で、左が小鉗像です。

   天津彦々火瓊々杵尊・大鉗・小鉗像
天津彦々火瓊々杵尊・大鉗・小鉗像



天津彦々火瓊々杵尊・大鉗・小鉗像
天津彦々火瓊々杵尊・大鉗・小鉗像



日向風土記逸文
日向風土記逸文



天孫降臨と高千穂
天孫降臨と高千穂
  天津彦々火瓊々杵尊・大鉗・小鉗像の近くにある案内板に、 天孫降臨について詳しく書いてあります。

                       「天孫降臨と高千穂」

 遠い神代の昔、この地上界があまりにも乱れていましたので、高天原の天照大神は大変ご心配になりました。そこで天照大神は孫にあたる瓊々杵尊に地上界へ降りて国を治めるように命じました。
 多くの神々を従え、高天原を出発した瓊々杵尊は日向の高千穂の二上峯に到着されました。しかし、霧が深く夜や昼の区別もつかず、道もわからず、物の色もよく分かりません。その時、この地に住む大鉗・小鉗という二人があらわれて、「尊が手に持たれている稲千穂を籾にして、あたり一面にまかれるとこの霧は必ず晴れるでしょう」と進言しました。尊がその通りにすると、霧が晴れ地上界に無事におりることが出来ました。それでこの地は智鋪(高千穂)といわれるようになったそうです。
 この神話は日向風土記に書かれていた物語です。風土記は713年、元明天皇の命により、諸国の国司(現在の県知事)が産物、地名の由来、伝承等を書いて提出した地誌です。日向風土記は現在残っていませんが、万葉集注釈(1269年)釈日本紀(1274年)という書物に引用されており、これを風土記逸文と呼んでいます。
 尚、古事記(712年)には天孫降臨の神山として高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)、日本書紀(720年)には襲(そ)の高千穂峯(たかちほのたけ)、槵觸峯(くしふるのたけ)、二上峯(ふたがみのたけ)、添山峯(そふりやまたけ)(祖母山)が記されています。
                                                     高千穂町

 「萬葉集註釋 20巻」(仙覚著)については、国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができます。


 古事記では、その後、邇々芸命(天津日高日子番能邇々芸能命)は笠沙の岬で美しい乙女(麗美人)に出会います。

 邇々芸命が「お前は誰の娘か」と尋ねたところ、「大山津見神の娘、名前は神阿多都比売、またの名は木花之佐久夜毘売といいます」と答えます。邇々芸命と木花之佐久夜毘売の出会いです。

 続けて、邇々芸命が「お前には兄弟がいるか」と尋ねると、木花之佐久夜毘売は「私の姉、石長比売がいます」と答えます。

 最後に、邇々芸命が「私はお前と結婚しようと思う。どうか」と求婚すると、木花之佐久夜毘売が「私は申し上げられません。私の父、大山津見神が申しましょう」というので、邇々芸命は大山津見神に使いを出します。

 大山津見神は大いに喜んで、木花之佐久夜毘売の姉の石長比売を添えて,たくさんの結納の品を台に載せて差し出します。

 ところが、石長比売はとても醜かったので(其姉者因甚凶醜)、邇々芸命は石長比売を送り返し、木花之佐久夜毘売だけと結婚するのです。

 これに対し、大山津見神は「わが娘二人とも差し上げたわけは、石長比売を妻にすれば、天つ神である御子の命は雪が降り風が吹いても、つねに岩のように、いつまでも堅く動かずにいらっしゃるだろう。また、木花之佐久夜毘売を妻にすれば、木の花の咲くように栄えるだろうと誓約(宇気比)をして、差し上げたのです。このように、石長比売を帰らせて、ひとり木花之佐久夜毘売だけをとどめたために、天つ神である御子の御寿命は、桜の花のように短くあられるでしょう」と予言します。

 木花之佐久夜毘売は一夜を共にしただけで身ごもります。

 それを聞いた邇々芸命は「佐久夜毘売よ、一晩で懐妊したというのか。これは我が子ではあるまい。きっと国つ神の子だろう」と疑います。

 木花之佐久夜毘売は、「私が妊娠した子がもし国つ神の子ならば、産む時に無事ではありますまい。もし天つ神の御子ならば、無事でしょう」というと、ただちに戸のない御殿(無戸八尋殿)を建てると、その中に入り、土で塗り塞いで、今まさに産もうとする時に御殿に火をつけて産みます。

 木花之佐久夜毘売は、燃えさかる御殿の中で、無事に三柱の子を産みました。

 火が盛んに燃えている時に生んだ子の名を火照命、次に産んだ子の名を火須勢理命、次に産んだ子の御名を火遠理命、またの名を天津日高日子穂々手見命といいます。

 「火照命」は、火が明るく燃える時に生まれたことに基づく名前です。
 「火須勢理命」は、火が燃え盛る時に生まれたことに基づく名前です。
 「スセリ」は勢いに乗って進む意味の動詞です。
 「火遠理命」は、火が燃え広がった時に生まれたことに基づく名前です。
 「新編日本古典文学全集『古事記』」(小学館)には「『ヲリ』は、たわみ曲る意の動詞『ヲヲル』と関係があろう。枝もたわわに花が咲くことを『花咲きををる』という。通説では、『ヲリ』を『折り』の意とみて、火勢が衰えたときの出生とするが、三子はいずれも『其の火の盛りに燃ゆる時に』生まれたと述べられており、文脈に合わない。また、もっとも貴い子が火勢の衰えた時の出生というのも、不自然。」と書かれています。

 火照命は海幸彦(海佐知毘古)、火遠理命は山幸彦(山佐知毘古)といったほうがわかりやすいかも知れません。(「さち」はここでは獲物のことを指し、「海佐知毘古」は海の獲物を得る男、「山佐知毘古」は山の獲物を得る男という意味です)

 火遠理命の孫が、神武天皇です。

                           <参考「新編日本古典文学全集『古事記』」(小学館)>