前田利家

 前田利家卿由緒止址
圓盛寺「前田利家卿由緒止址」(名古屋市中川区前田)

 前田利家の生誕地は荒子城と前田城の2つの説があります。それは、荒子城がいつできたのかはっきりしていないからでしょうか。
 冨士大権現天満天神宮内にある荒子城跡の史跡標札には「天文年間(1532~55)前田利昌の築城と伝えられている。」と書かれています。前田利家が生まれたのは天文6年(1537年)(天文7年説あり)ですから、微妙といえば微妙ですよね。

 続いて前田城を見てみましょう。

 名古屋市中川区前田西町1丁目904 に前田速念寺があります。この場所は、古くは尾張国海東郡前田村といいました。その昔、前田村には前田城があり、前田利家をはじめとする前田氏発祥の地でもあるそうです。



前田速念寺山門
山門2階に鐘が下げられている

兜のような前田速念寺本堂

 前田城跡に建っているといわれているのがこの前田速念寺です。

 前田速念寺山門に向かって右手前には「前田利家卿御遺趾」の記念碑が、左手前には「前田城址」の石碑があります。

 山門に掲げられている前田速念寺の由来記には次のように書かれています。


    前田速念寺の由来
 速念寺は加賀百万石の太守前田利家公寄進になる阿弥陀如来を本尊としている。
 ここはもと海東郡前田村と言い、前田城があり、 前田氏発祥の地である。利家公も前田で生まれ、 幼少にして前田城の出城、新設の荒子城に移って成長したとするのが寺伝である。前田氏は菅原道真公を祖と仰ぎ、梅鉢の紋を用いる。
 前田氏は織田信長に属し、 西に蟹江城、東に荒子城、南に一色城、等を支配し、 前田城はその中心であった。
 前田城は、天正十二年長久手の合戦ののち、秀吉方についたため、 家康方の攻撃を受け落城、城主与十郎は蟹江で討死、その子 長種は北陸に逃れて利家に仕え、一万石(のち二万石)を得た。 利家の長女幸を妻とした。
  利家の叔父前田利則は、出家して意休と号し、浄土真宗速念寺初代となり、速念寺は前田氏の鎮魂の寺となった。
  境内には、前田家古墳や最後の城主与十郎の墓がある。 また明治に建立された利家公の記念碑や、中部石川県人会の シンボル碑がある。
 平成十三年十一月
                        前田 速念寺

 前田速念寺の寺伝では、前田利家は前田城で生まれ、あとで荒子に移ったされています。「前田利家が生まれたときに時荒子城が存在したかどうか疑問がある」「利家の身辺警護に荒子衆が当っていたので、荒子出身と言われるようになったのであろう」というのが前田生誕説側の言い分のようです。

前田速念寺 山門をくぐると、左には「𦾔前田村碑」があります。明治22年に市町村制が公布され、万場村,長須賀村,前田村,助光村,伏屋村が合併し「万須田村」(この名前は万場,長須賀,前田から一文字ずつとったそうです)になりました。このときに村民が由緒ある地名が消えるのを惜しみ、この碑を建てたそうです(現在、旧村名はすべて残っています)。この碑の碑文を読むことはできませんでしたが、海東郡長は「前田利家公の懸狐の地」(元は漢文体です)と記したそうです。

 山門をくぐった右手には、サンスクリット語で書かれた「無量寿経」(一部)の大きな石版があります。

 本堂に向かって左隣には城主前田家古墳三基(伝仲利・利成ほか,十六世紀)と前田城最後の城主前田與十郎ほか二基の墳墓があります。


 正面奥に見えるのが前田家古墳と前田與十郎の墓

 前田家古墳と前田與十郎の墓の前を通り過ぎ、さらに置くまで行くと、「前田古城趾」の碑があります。

 「前田古城趾」の碑から元の道に戻り、さらに裏門の方に歩いていくと、裏門のすぐそばに「前田学校静和学校趾」の碑があります。この、「前田学校」「静和学校」が何か、調べてみましたが分かりませんでした。

 前田速念寺には前田利家公御陶像や前田利家公御位牌もあるそうです。

 前田利家の生誕地について調べ、前田城について調べたところ、前田速念寺のことが紹介されていたため、前田速念寺に行き(前田速念寺の近くには、お寺がいくつもあり、迷ってしまったのですが、散歩中の年配の方に道を尋ねたところ、前田速念寺の近くまで一緒に歩いて連れて行って下さいました。感謝です)、右の写真1枚目の「前田利家卿御遺趾」碑,2枚目の「前田城趾」碑,6枚目の「前田古城趾」碑を見て満足して帰ってきたのですが、その後、本を読んだりして調べたところ、前田速念寺のすぐ横にある圓盛寺に、荒子に負けない大きな碑があることを知りました。
 これは行かなければいけないということで、圓盛寺に行ってきました。

 圓盛寺は、前田速念寺のすぐ北隣にあります。

圓盛寺山門 圓盛寺本堂

 圓盛寺の山門をくぐると、正面やや左に「故陸軍歩兵軍曹横井庄一之墓」があります。あの横井庄一さんの墓がここにあるんだと思いましたが、後日「横井庄一記念館」へ行き、奥様の横井美保子さんにお伺いしたところ、その墓は別人であることが分かりました。横井庄一さんの墓は2つあり、1つはグアム島から帰国する前に戦死したと知らされた母横井つるさんが建てた墓で、もう1つは横井庄一さんが亡くなった後、奥様が建てた墓だそうです。奥様が建てた墓には「グァム島之小動物之霊」の碑が建っています。自分が生き永らえるための貴重なタンパク源として命を奪ったネズミやカエルなど小動物の墓を作って欲しいという希望があったんだそうです。「あの人はネズミやカエルと一緒に眠っているんですよ」という奥様の言葉が印象に残っています。

 圓盛寺本堂の正面、山門をくぐって右側の後方に小高い丘があり、その丘の上に大きな「前田利家卿由緒止址」の碑が建っています。
 碑面には「前田利家卿由緒止址」「遺芳千秋」と書かれています。裏に回ると、左上に小さく「大正八己未年春日」と彫られています。周りの状況から、ここに碑文が書かれていたとしても不思議ではないのですが、ざらざらとした面が残っているだけで、書かれていたかどうかも分かりません。

 前田城は前田速念寺だけでなくこの圓盛寺もその城内であったと考えられます。前田利家ゆかりの地を巡るのであれば、前田速念寺だけでなく、この圓盛寺にも立ち寄るべきです。
 「前田利家卿由緒止址」の碑は、このページの最初の写真を見てもらっても分かるように、風景としてもきれいです。

 荒子城についてはこちらです。
 前田利家の像についてはこちらです。
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  前田利家卿御遺趾
「前田利家卿御遺趾」碑

前田城址
「前田城址」碑


「𦾔前田村碑」


「無量寿経」の石版


前田家古墳と前田與十郎の墓


「前田古城趾」碑



「前田学校静和学校趾」碑

前田利家卿由緒止址
「前田利家卿由緒止址」碑

「前田利家卿由緒止址」碑裏面
「前田利家卿由緒止址」碑裏面