関ヶ原合戦


関ヶ原合戦の陣跡などいわゆる「関ヶ原の戦い」に関連する場所は当然のことながら数多く存在するので、こちらにまとめました。









関ヶ原合戦
開戦地
合戦当日の朝、松平・井伊隊が、宇喜多隊の前へ進出し発砲。それに続いて福島隊が、宇喜多隊に対して一斉射撃を掛けたのがこの場所であるといわれています。現在の標柱の位置は、圃場整備によって史跡指定時よりも約300m北に移動しているそうです。(開戦地の碑の近くにあるのは小西行長陣跡です)
関ヶ原合戦
決戦地
田園の広がる中程に「決戦地」があります。
小早川秀秋の寝返りにより東軍優勢となり、西軍の敗北が見えた関ヶ原合戦。この決戦地は、東軍諸隊が三成の首を狙って、激戦を繰り広げられた場所といわれています。






関ヶ原合戦陣跡
桃配山
徳川家康
最初陣地
慶長5年(1600年)9月15日午前2時頃、石田三成率いる西軍が関ヶ原へ向かったという報告を受けた徳川家康は、赤坂岡山の本陣を出陣し、関ヶ原へ向かい、ここ「桃配山」に到着、本陣をおきました。
このとき、家康がテーブルと腰掛に使用したと伝えられている岩が残っています。
関ヶ原合戦陣跡
床几場
徳川家康
最後陣地
関ヶ原町歴史民俗資料館西の陣場野公園に「床几場・徳川家康最後陣地」があります。
関ケ原合戦当日午前11時ごろ、家康は本陣を桃配山からここに移動させました。合戦後にはこの場で引見が行われ、武士たちが討ち取ってきた敵の首級が実検されました。
関ヶ原合戦陣跡
松平忠吉
井伊直政
関ケ原駅のすぐ西にある「東首塚」境内の東隅に、「松平忠吉・井伊直政の陣跡」があります。
東軍の先鋒は福島隊と決まっていましたが、午前8時頃、井伊直政隊が、福島隊の制止を振り切り、宇喜多秀家隊へ発砲し開戦となったといわれています。
関ヶ原合戦陣跡
本多忠勝
関ヶ原駅前交差点から南へ続く細い路地を進んだところの奥に「本多忠勝陣跡」があります。
忠勝は軍監として参戦しており、松平・井伊隊が対戦していた島津隊に向かって進撃しました。このときに、愛馬・三国黒を銃撃により失っています。
関ヶ原合戦陣跡
藤堂高虎
京極高知
「藤堂高虎・京極高知陣跡」は関ケ原中学校の敷地内にあります。
合戦時には、福島正則隊に続いて東軍左翼縦隊の第2陣として進軍しました。合戦当日、午前8時頃に開戦すると、両隊は不破関跡付近まで進撃し、大谷吉継の隊に属していた平塚為広と交戦、午後には小早川隊と共に大谷隊を破りました。
関ヶ原合戦陣跡
岡山烽火場
黒田長政
竹中重門
東軍で唯一関ヶ原を一望することが出来る陣跡です。
関ヶ原の領主は幼なじみの竹中重門ですから、黒田長政はこの眺望と重門の知識で、西軍の動きと関ヶ原の地理を把握できたものと考えられます。合戦当日、霧も晴れ上がった午前8時ころ、ここから烽火が上げられ、東軍諸隊に攻撃の合図が出されました。開戦後は、島左近らを討ち取っています。
関ヶ原合戦陣跡
細川忠興
忠興が愛用したといわれる越中頭形兜と歌仙拵の名刀兼定が描かれている「細川忠興陣跡」の碑は新しく、2013年3月に建立されました。
合戦当日は、黒田長政らと共に、石田三成の本隊と激しく戦い、136もの首級をあげたといわれています。
関ヶ原合戦陣跡
福島正則
東軍の先鋒に決まっていた福島隊は、松平・井伊隊の発砲後、宇喜多隊に襲いかかり、死闘を繰り広げました。この死闘は『関原軍記大成』に「此時、秀家卿の太鼓の丸の旗と、正則の山道の旗を退く事、二三度に及びたりとかや」と書かれています。
関ヶ原合戦陣跡
田中吉政
伊吹山中で逃亡中の石田三成を捕縛した田中吉政の陣跡は「徳川家康最後陣跡」の近くにありますが、合戦時の田中隊のはっきりとした布陣地はわかっていないようで、以前はこの西南(甲斐墓)にありました。
関ヶ原合戦陣跡
山内一豊
岐阜・大垣の兵と戦った後、山内一豊らは垂井一里塚から桃配山までの間の中山道に陣を置き、南宮山の敵に備えました。その後、南宮山の隊に東軍攻撃の形勢がないため、家康の命令を受け、山内隊は有馬・蜂須賀の隊と共に芝井の地まで前進して戦いました。



西
関ヶ原合戦陣跡
松尾山
小早川秀秋
通説では、内応を約束していた小早川秀秋隊が、松尾山に布陣したまま動かないことに業を煮やした家康が、正午過ぎに松尾山へ向かって威嚇射撃(問い鉄砲)を命じ、東軍に寝返ったといわれていますが、現地を訪れると、問い鉄砲に意味のないことや、開戦とともに山を下りたであろうことが想像できます。
関ヶ原合戦陣跡
脇坂安治
賤ヶ岳七本槍の一人に数えられた脇坂安治は、朽木元綱・小川祐忠・赤座直保とともに大谷吉継の指揮下で松尾山の麓にそれぞれ布陣し、東軍と対峙しましたが、小早川秀秋が寝返ると、脇坂ら4隊も大谷隊らの側面に攻撃を仕掛け、壊滅させたといわれています。
西





 関ヶ原合戦陣跡
笹尾山
石田三成
笹尾山の山麓に、合戦時に敵の攻撃からの防御として使われた竹矢来や馬防柵が復元されています。その間にある階段(2017年春に手すりもつきました)を登っていくと「石田三成の陣跡」があります。
決戦前夜に大垣城を離れた石田三成は、関ヶ原を一望できるここ笹尾山に本陣をおきました。
 関ヶ原合戦陣跡
島左近
「治部少に過ぎたるものが二つあり 島左近に佐和山の城」(『古今武家盛衰記』)とまでいわれた島左近は、竹矢来の前方に陣をおき、最前線で指揮を執ったといわれています。他の陣跡のような石碑はありませんでした。
関ヶ原合戦陣跡
南天満山
宇喜多秀家
南天満山麓の天満神社の境内に「宇喜多秀家陣跡」があります。
秀家は西軍副総帥として、合戦時には兵約17000という主力部隊として布陣しました。「此時、秀家卿の太鼓の丸の旗と、正則の山道の旗を退く事、二三度に及びたりとかや」(『関原軍記大成』)といわれる死闘が繰り広げられたのが、まさにこの辺りであると考えられます。
関ヶ原合戦陣跡
北天満山
小西行長
小西隊は、関ケ原合戦が始まるとともに、北天満山から烽火をあげて味方に開戦の合図をしました。午後になり大谷隊が敗れたとの知らせを受けると、天満山を越えて揖斐郡の春日方面へ敗走したようです。
関ヶ原合戦陣跡
島津義弘
西軍布陣地のほぼ中央部に「島津義弘陣跡」があります。
開戦後は、自ら攻撃に出ることはなく、自陣に近づく者は東西両軍にかかわらず打ち払う姿勢を取りました。小早川秀秋の寝返りで戦況が一変すると、島津隊は東軍の中央を敵中突破しました(島津の退き口)。
関ヶ原合戦陣跡
大谷吉継
若宮八幡神社への階段を上り、その後、山を登ると「松尾山眺望地」が、さらに登ると「大谷吉継の陣跡」があります。
小早川秀秋隊の謀叛に備えていた吉継隊でしたが、秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人が東軍に寝返ったことにより軍は混乱、吉継は自刃しました。
大谷吉継
湯浅五助
大谷吉継陣跡からさらに300mほど奥に進むと、大谷吉継・湯浅五助の墓があります。
大谷吉継の墓は、関ヶ原合戦後まもなく藤堂家によって建立され、湯浅五助の墓は、大正5年(1916年)に、五助の子孫により建立されました。
関ヶ原合戦陣跡
平塚為広
垂井城を居城としていた平塚為広は、戸田勝成とともに約600の兵で藤川台に布陣しました。病を押しての参戦となった大谷吉継に代わって、前線の指揮を託されていたとも伝えられ、藤堂高虎・京極高知らを相手に善戦しました。小早川秀秋が寝返ると、吉継と共にこれを追い返しますが、脇坂安治らも寝返ったためささえきれず、吉継に辞世の句を送って討死しました。
関ヶ原合戦
東首塚
当時この地の領主であった竹中重門が徳川家康の命令により、関ヶ原合戦で戦死した兵士たちを東首塚と西首塚の2ヶ所に埋葬しました。
朱色の門を抜けると、その奥にスダジイの大木が茂った塚があります。他に「首洗いの古井戸」もあります。
関ヶ原合戦
西首塚
「西首塚」は、別名「胴塚」とも呼ばれています。塚の手前にある御堂には、地元の奉納により千手観音と馬頭観音が安置されています。





関ヶ原合戦陣跡
浅野幸長
五奉行の一人、浅野長政の嫡男・幸長は、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、岐阜城を攻略。合戦当日は後の垂井一里塚付近に陣を構え、南宮山の毛利秀元ら西軍勢に備えました。
西

関ヶ原合戦陣跡
毛利秀元
関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として大阪城に入城した毛利輝元の名代として、9月7日に南宮山に陣を構えました。ここからは、大垣城から名古屋まで見渡すことが出来ますが、関ヶ原を見渡すことが出来ません。大垣城での戦いを前提とした陣構えと考えられます。
関ヶ原合戦陣跡
安国寺恵瓊
石田三成らと共謀し、毛利輝元を西軍の総大将に引き込むことに成功した安国寺恵瓊ですが、決戦当日は南宮山の麓に陣を構えたものの、東軍に内通した吉川広家のために動くことが出来ず、敗戦後に逃亡しました。
関ヶ原合戦陣跡
長宗我部盛親
長宗我部盛親の陣跡は2ヶ所あります。清水寺公園内とそこから25分程山を登った栗原連理のサカキ付近です。関ヶ原合戦では栗原山麓に陣を敷きましたが、吉川広家の内通により傍観軍となり西軍の配色を見て、戦わずして帰国の途につきました。
関ヶ原合戦陣跡
長束正家
伏見城の戦いでは、甲賀衆を内通させ火をつけさせることに成功した長束正家ですが、毛利秀元,安国寺恵瓊,長宗我部盛親らと南宮山に布陣した本戦では積極的に出撃できず、敗戦後に水口城に帰りました。